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次男とロビンソン

サッカーが好きな女の子と小説家の叔父が二人して、鹿島アントラーズの本拠地めざして旅をする乗代雄介さんの『旅する練習』という小説が悲しすぎて悲しすぎて思い出すたび泣けてしまうのだが、少女と叔父がお散歩する姿に憧れを抱いておったところ、思いがけず次男が「ファミール行こう」と近所のどでかい中庭のあるマンションへ誘ってくれたので、不器用な僕はハートマークを隠したまま、自分のことを「ワクイ」という、このかわいい子と一緒に出かけることにした。

「お父ちゃんを誘うなんて珍しいね」と言うと「お母ちゃんがテレビ見てるから」と、なんら罪の意識のカケラもなく、おまえは二番目やと告げられるが、「行くぞ」と振り向くワクイの何か企んでいるような目と目が合うと、もう何番目でもいいと思ってしまい、マンションの外へと駆ける君を追いかけた。河原の道を自転車で走る君を追いかけるスピッツのロビンソンみたいじゃないかと思った。
いまから誰も触れない二人だけの国へ行くんだ。

ゴムボールを持たされたので、このボールで遊ぶつもりなのだろう。『旅する練習』では、叔父が旅の途中で出会う情景を描写している間に少女がリフティングをする場面が何度も出てくる。あんな感じでワクイが遊んでいる場面をスマホのメモ帳に書き留める、なんてことができたらいいのにな〜と思いながら、この悪戯盛りの小学一年生が、そんなことを僕に許してはくれまいとすぐに打ち消す。

ファミールに着くと、「敷地内でボール遊びしてはいけません」と貼り紙がしてあったが、池の畔では少年たちが、うちのゴムボールとは違う、硬そうなボールをバウンドさせながら戯れている。思い出したかのように「ボール貸して」とワクイが言うので、「ここはボール遊びしたらあかんことになってるからあかんわ」と、ボール遊びしてる少年たちにも聞こえるようにちょっと大きい声で言ってやったが、少年たちには全く聞こえていなかったか、完全に無視されたか。

注意というのは、ちゃんとしようとしている人にしか、なかなかその真意は届かないものなのかもしれない。ワクイが「でもあの子たちはボール遊びしてるよ」と言ってきたら、どうやって返せばよいのだろうか。幸い、我が子はそのようなことを疑問に思うことはなく、アスレチック広場で遊んでいると、同じクラスのお友達がやってきたから、お父ちゃんのことは居ないかのごとく、彼と戯れており、お父ちゃんは二番目ですら無いことに気づいた。

TwitterやInstagramを開いてみると、京都大作戦中止に対して思いを記す人たちの言葉が思いの深さ、重さに比して無情なほどに淡々と流れ通り過ぎてゆく。ボール遊びが禁止されているところで悪びれもせずボール遊びをしてしまう人に注意を促すことの難しさを感じながら投稿を読むというほどでもなく眺めており、ふと顔を上げてみると、ワクイの姿が確認できず、思いのほか、遠くのほうでお友達とじゃれているのが見えた。子供の面倒見てるときくらい、スマホから目を離しなさいよっていう注意が聞こえてきた。

お友達が帰ったので一人になったワクイは、また僕のところに戻ってき、やはりどうしてもボール遊びがしたいらしく、近くにあるボール遊びのできる公園へ移動することにした。公園と沿道を隔てる柵のことを「ワクイ、ここから入れるで」と言うので「正規の場所から入りましょうね」と諭しつつ「ワクイはこんな柵を乗り越えるのは無理やろ」と自尊心を刺激してみた。「できるわ!」と声をやや荒らげながらもお父ちゃんの言う通りに正規の場所から入園すると、僕の手からさっそくゴムボールを奪い、おもいきり中のほうへ蹴り込んだけど、飛距離はたかが知れており、そのたいしたことのない飛距離がただただ微笑ましい。

公園の北端と南端で相対峙して、ボールを蹴り合うゲームをする。隣の砂場あたりでは、別の家族のお父ちゃんと娘二人が戯れている。あっちにはボールがいかないように蹴るんだよ、と思いながらワクイの蹴るボールを待ち構える。懸念をよそに、そちらにボールが跳ねることはない。僕は僕で、最初はワクイの取りやすいところに蹴っていたが、やや物足りなくなったので、逆方向へ逆方向へボールを蹴ってワクイに追いかけさせるようにした。高校生の頃、野球部の練習で怒り狂った監督が僕たちをレフトに位置させてから、ライトにノックしたのを思い出した。僕はそんなスパルタではなく狂ってもいないから、ギリギリ追いつける程度のところに上手いこと蹴り込んでやった。思ったより、なかなか上手くできた。

少し雨がきつくなってきたから、砂場の父ちゃんと娘二人は帰っていった。僕もさっきから何度も帰ろうと考えていたが、あっちが居なくなって公園を二人だけで使えることになったいま、このまま帰ってしまうのは実に勿体ないことのように思われ、しばらくは雨の中、ワクイとゴムボールを蹴り合いっこした。

誰もいない公園で、最後に僕もおもいっきりこのゴムボールを蹴り飛ばしてやったのだが、想定の三分の一も遠くへ飛ばず。己の体力の限界を知り、こういう時は、必ず脳裏に千代の富士の引退会見の様子がよぎる世代である。飛距離はといえば、さっきワクイがおもいきり蹴り込んだときのそれとさほど変わらなかったから、さっきその飛距離に感じた微笑ましさも消えてしまった。

公園をあとにするとき、ワクイが正規の出入り口に刻まれている「栂尾公園」の振り仮名をなぞって読んだ。

「と・が・の・お・こ・う・え・ん」
「と・が・の・お・こ・う・え・ん」

「こーえん」が「こ"う"えん」となり、「う」の強調のされ方が、僕の蹴り込んだボールの飛距離のおかげで消えてしまった微笑ましさを蘇らせた。

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