白いラナンキュラス
「なんでこんな目に合わないといけないんだろう」
使い古したビニール傘の上を、大粒の空の涙がゆらゆらと流れるのを眺めながら僕はそう心で唱えた。
まぁそんな予感は1週間前からしていたから覚悟はできていた。でも、やっぱりその言葉は、まるで鉄球を飲み込んだかのように胸にグッと重くのしかかる。その日は彼女の薬指に光っていたはずの物までなくなっていた。
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僕はセルジュルタンスのフルールドランジェを持っている。オレンジブロッサムやジャスミンが薫る香水だ。この香水は彼女のために買った。まつ毛がひとの2倍くらい長くて綺麗な黒髪、雪のように白くてマシュマロのように柔らかい肌の彼女のために。理由は彼女の家が花屋だから。フローラルな香りならきっと喜ぶだろうなと思った。
彼女の口から出る話題はもっぱら家族のことか花のことの2つしかない。「昨日ママが可笑しくってね」とか「薔薇の花言葉全部言える?」とか。そこが可愛かった。
彼女はラナンキュラスという花が一番好きらしい。それも色は白。ラナンキュラスは花びらが沢山重なった花だ。花言葉も教えてもらったけど、とっくの昔に記憶から消えていた。
僕たちは一般的なカップルだった。それ以上でもそれ以下でもない。普通にデートに行き、普通に手を繋ぎ、たまに肌を重ねる。
僕にとってはそんな彼女との毎日が最高に幸せだった。まるで真夏にクーラーのきいた部屋に入った時の一瞬の幸せが永遠に続いているくらいに。
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そんな日々は一瞬で過ぎていった。
「あのね。別れて欲しい…。」
彼女の家の布団で体育座りをしながら下を向いていた彼女が、ゆっくりと顔を上げ、僕の目の少し下を見ながら言った。
「そっか…」
そう言われるのはわかっていた。僕はなるべく気持ちを悟られないように、口角を上げられるだけ上げて言った。(多分相当不自然だっただろう)
恋は引き止めようとすればするほど離れることを僕は知ってる。本当は色々言いたい事も聞きたい事も山ほどあったけど。僕は口をつぐむ。
しばらく無言の時間が続いた。冗談抜きで時が止まっていた。彼女の家にあるギターの弦のようにピンッと張った空気。そんな息もできないような空間で、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「もう帰る?」
そう彼女は横目で僕を見ながら言った。もうそこに僕が好きで好きでしかたなかった彼女の瞳はなかった。「いつまで居る気?早く帰ってよ」と心の中で思っているのがわかった。
「帰るか〜」
一呼吸、間を空けて僕は言った。僕は眉毛と口角を少し上げて、まるで自分は未練なんてないかのように精一杯の表情を作った。自分の重い腰を上げながら僕は最後の言葉を彼女に微かに聞こえるように呟いた。
「もうここに来ることもないのか」
そんなことないよ。また来ていいよって言って欲しかった。また彼女と手を繋ぎたい。また抱きしめたい。
そう思っているのは僕だけだった。
「ふふ」
と呆れ気味に鼻で笑うのが聞こえた。
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それからというものの、フルールドランジェの香りを纏うのも、花屋に行くのもやめた。あの香りを嗅ぐと当時の思い出が鮮明に、感情と一緒に蘇ってくるし、花屋に行くと彼女が大好きだった白いラナンキュラスがあるから。
そんなことを思い出したから、白いラナンキュラスの花言葉を調べてみた。
「純潔」
そういえばそんなこと言ってたっけな。
彼女以上に白いラナンキュラスが似合う人を僕は知らない。