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東京、ここは宮崎。流れる時間の差異

17時。
元日をずっと家で過ごしていた僕はその時刻になってやっと外へ出た。
薄いすじ雲がかった空から、少しずつ青が吸い取られていた。冷たい空気に流されるようにして空から生気が抜けていくようだった。
だんだんと暗くなっていく空を眺めながら歩いていて、あることに気がついた。

「そうだ、この時間の東京はすでに暗かったはず」

年末、大学の同期たちに会うため上京していた。東京に着いたその日、忘年会まで時間があった僕は蔵前や田原町を友人とふらついた。特に大きな目的もなくふらつき、本屋や雑貨屋を転々とした。カキモリという文具店を後にしたときには外は暗く、お店の明かりが非常に目立っていた。冷たい風が吹くなかで、コートにねじ込んだ手を無理やり外へ出す。腕時計を見ると、時刻は17時前だった。

宮崎と東京。同じ日本の中に存在するとはいえ、距離や緯度経度がこうも違うと一日の流れ方も違う。
東京が寒々と暗くなっているあいだ、宮崎はまだ陽に余裕があったりする。

そういえば、かつて東京で暮らしていたときに日の出の早さを感じることがあった。季節にもよるが関東は4時〜5時台には空は明るくなり、朝が来ていた。そんな時間に朝帰りや散歩をすることで、慌ただしい朝とは違う別の「朝」を楽しんでもいた。静寂しきった朝の時間は時計単位でみれば短かったが、感覚としてはゆったりと流れていた。

宮崎での生活が長くなり、久しぶりに東京へ出るとあらゆる時間感覚の差異を感じる。

過ぎいく一日の早さ、情報流通の速さ、電車やバスのダイヤ間隔の短さとそのもののスピード、人の歩く速さ、そして喋る速さ。とくにこの喋る速さを今回強く感じた。大学の同期たちと話していると、相手の口から出てくる言葉のスピードが宮崎人のそれと違っていた。一瞬、英語のネイティブスピーカーを相手にしているような錯覚に陥った。同じ日本語、ましてや相手は標準語なのに聞き取りに少々苦労した。かつて同じ相手と何年間も会話していたはずだが、自分の話すスピードや言葉の処理能力が遅くなったのだろうか。

その土地ごとに環境は違う。そして、その土地にいる僕ら人間は、環境に強く影響されながら生活をしている。それぞれの土地と環境が生み出す時間があるとするならば、そこで生きる人々の行為にかかる時間の幅や、その時間の幅を受け止める感受性が異なってくるのは当然かもしれない。

都会の時間の流れは早い、田舎の時間の流れはゆったり。
そんな使い古された表現が思い浮かぶ。時計で測るような、物理的な時間は平等なのに、感じ方はおかれた環境で変わってくる。

時間の速度の良し悪しは置いといて、速かろうが遅かろうが、その速度を感じている自分が自由でマイペースでいれたら一番いいんだろうなと、昼と夜のはざまを眺めながら思ったのだった。

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