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説明過多の向こう側へ。言語に頼りすぎな僕らへ

わかりやすさの向こう側へ。正解の彼方へ。情報量のあちら側へ。レビューからかけ離れたところへ。

ことば、文字、文章。言語というのは便利なものだけれど僕らはそれだけで情報も情緒も拾っているわけではない。どこを見ても文字情報が飛び交う時代。その量も半端なものじゃない。その量が膨大になればなるほど物事は単純なわかりやすさを志向するようになる。その結果、ある種の「それで正解」が生まれてくる。

ほんとに言語って何なんだろうと、日々言語に頼り切って働き生活の糧を得ている身として脱構築というか、自身を問い直したくなる体験をした今日であった。

映画、そして絵画の個展。
映像やキャンバスで訴えかけ、迫ってくる作品、それらが演出し鑑賞する者を包み込んでしまう世界観。
ことばや文字を詰め詰めにして表現しなくても、表現できること、伝わるものはある。そして、僕自身そういったものを伝わる、受け取れるような感性を養っておきたい。

言語という鋳型では狭すぎてこぼれ落ちるものがある。表現しきれないものが溢れ出ていく。

『aftersun/アフターサン』という映画を観た。以前から気になっていた映画だ。宮崎では全国公開より遅れて6/30より公開。7/1、ファーストデイで割引のある今日、満を持して映画館へ足を運んだ。

静かで不思議な映画だ。過去の夏の思い出をビデオテープとともに回想する内容だったけれど、ホラーな雰囲気も漂っていた。色彩はカラフルだけどどこか不安定なトーンで終始ハラハラしていた。映画そのものが触れ方注意な繊細さを放っていた。劇中で象徴的に使われるBlur「Tender」Queen & David Bowie「Under Pressure」が切なさを醸し出す。

ストーリー自体は本編のなかでほとんど説明がないといっていい。主要な登場人物である父と娘の会話、二人の演技、カメラワークからなんとなく察することができる程度。観ている者に理解させようという親切さはない。

だが、それでも十分と思えるほどの描き方、演出だった。こういう描き方があるんだなと新鮮さもある。父と娘の関係性、セリフ、それらを映し出す画角のセンス。宣伝用のウェブや予告編が説明しすぎなんじゃないかと思えるほど(お客を動員させるという意味では正解かもしれないが)。

次から次へと刺激を畳み掛けてくるのではなく、一種のためらいのような余白や隙間がある。その語らなさが心地いい。確かに受け取るものがあったし、その後の余韻も何時間と続いた。

と、その映画のほかにも今日は個展「中武卓」展に行ったのだった。
場所は宮崎県庁近くのクスナミキ・ギャラリー。卓(すぐる)さんはアートステーションどんこやに所属し、昨年はパリで開催された展覧会にも出展するなど宮崎を代表する画家だ。卓さんのパステルのみを使った力強い、とてつもない筆圧で描かれた作品は圧倒される。迫力があり過ぎて梅雨時の鬱々とした気分が吹き飛ばされるほど。

約1mあるキャンバスから溢れるエネルギー。描かれているのは、人、花、猫など何かであることはわかる。けれど、その何かのもっと詳しい「何で」あるかはわからない。

でも、そんなこと関係なしに見入ってしまう。むしろ説明が邪魔なくらいだ。ただただ「すげーすげー」と迫り来るものを体感するだけの時間。それもじっくりと。何か無理やり言葉を当てはめて理解しよう、解釈しようというのが自分を狭くさせるような、凡庸にさせるように思えてくる。ただただその「わからなさ」「けど、やばい、すごい」感覚を味わう。そんで最後になってタイトルや紹介のキャプションで作品の種明かしができればいい。

そうそう、なんでもかんでも理解しなくていいはずなんだ。それに理解するには時間がいるはずなんだ。それも遅く流れる時間が。そこをコスパ・タイパと吹っ飛ばして、時短でわかりやすさや誰かが提示する正解なんかを手に入れたところで何を意味する。感性が痩せ細るだけだ。

言語以外で言語未満の表現、またはコミュニケーションってなんだか身体性を伴う気がする。頭で理解しようとしないというか。身体で受け止めるところがある。そういうものに触れるときって頭が冴え渡ると同時に体の内側からもなんだか沸々と湧いてくるものがある。感情なのか体の何かしらの症状のようなものなのか。そういうのってすぐことばに表そうとすると陳腐化するというか、なんだかしっくりこない。すでに知っていることで処理しようとしている感じ。

理解ともちょっと違う、何かが「わかる」って感覚は言語だけじゃなくて何か身体性を帯びたイメージを持つと思うんだ。それって、言語としての情報だけじゃなくて、目にしたもの、聴いたもの、嗅いだもの、味わったもの、触れたものの情報も合わさっているはず。

人が持つ言語感覚ってこういった身体感覚との結びつきがないと育まれないところもあるはずだ。言語だけですべてを「表す」には不十分すぎる。それに僕らは今・現時点で「わかる」ことを求め過ぎている気がする。説明過多はそれに対応した結果ではないか。それも親切にだ。モヤモヤを携えたまま、時間が経ってからなんとなく「わかってくる」でもいいのではないか。

自分に言い聞かせたいが、なぜ性急にわからなければいけないのだろうか。
生身の体を世界に投げ出さないと、いつまで経っても「知っている」ことからは抜け出すことができない。感性はおろか言語でさえ痩せ細ったままな気がする。


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