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『オルダニアの春』15・創作ファンタジー小説(約2000字)



第2話 壁を超えろ


「すべてだ。何もかも取り去れ」

 言葉とは裏腹に、彼女の濃く長いまつ毛は、ぼんやりとした光の中で揺れ、尖った唇や華奢な肩は震えていた。

 言われたとおり、羞恥心など微塵も見せずに生まれたままの姿になるガスの前で、リシェルも大きく呼吸すると、自らのネグリジェに手をかけた。

 これが何を意味しているのか、ガスはよく理解できていた。だから迷うことなどなく、雇い主の娘に裸体を投げ出した。

 そこにあるのは年頃の、男と女の体だった。

 ガスの肉体は、力仕事で鍛えられ、日に焼けた男らしく逞しいものだった。
 一方リシェルは、滑らかな肌に柔らかく凹凸を作っている。控えめに膨らんだ乳房と、引き締まった腹、ふくよかになりつつある腰や尻。少女と女性の間にある、神々しいほどに美しい肉体。

 ガスは、感情のない面持ちでそれを見ていた。あるいは、巧妙に焦点をずらしていたかもしれない。

 リシェルは眉間にくっきりとシワを寄せ、

「ああ……」
と、感嘆をあげるや、彼女はその場に崩れ落ちてしまったのだ。

「ああ、ああ……。やっぱり……、やっぱり……」

 言葉の続かないリシェルに、ガスは素早く服を身につけ駆け寄った。肩から毛布をかけて、彼女の体を覆ってやる。

「リシェル様……」

 慰めの言葉も見当たらない。彼女は嗚咽を漏らしている。

「ガス……」と、涙で濡れた瞳を彼に向けた。「私たちは…、全然違う体をしているんだな」

 ガスは黙って頷いた。

「私は、女なのだな。女。女なのだ。ああ、嫌だ。嫌だ。俺は、お前のようになりたかった……」
 それが、彼女の、かきむしるような願望だった。
「私の体は、女なのだな」

「そうです」
と、ガスは正しく答えるしかない。

「私は男ではないのだな」
「そうです」
「お前のようにはなれないのだな」
「そうです」
「私の体を見て、どう思った?」

 これには戸惑った。だが、正しく答えるより他の道はない。

「一人の男として申し上げるなら、魅力的でした」

 リシェルの見立てどおり、彼は決して頭が弱いわけではなかった。それどころかとても思慮深い人間だった。リシェルだけが、それを見抜いていた。
 ガスの言うことに、嘘はない。

「そうか……。そうなのだな」
と、リシェルは自らを受け入れて、言った。
「知っている。本当は、どうあがいたってお前になれないことは、知っているのだ。どんどん大きくなるお前の背中、樹の幹のように太い足や腕、首。私とは全く違う。それに、髭だ。放っておけば庭の草のように生える青々とした髭。ああ、嫌だ。嫌だ。私の腕はなぜこんなに細い。それに、この胸」

 毛布の上から、彼女はその部分を掴んだ。
 なぜこんなものがついているのか。

 乳房という部位を否定するつもりはない。下女や乳母の白いそれが、布の端から覗いたときなど、その崇高さにハッと目を奪われる。だが、自分の身にはいらない器官だ。

 それから、最も違う部分も、今さっき目の当たりにした。残酷な現実だ。あの、男を男たらしめる、最たる部位。

 父や兄の堂々とした姿に憧れていた。成長すれば自分もああなると思っていた。
 姉や母を、どこか見下していた。自分よりも見劣りするからではない。彼女たちが「女」だからだ。自分は違うと思っていた。頭では理解しているつもりでも、心が認めようとしなかった。

 抱え込んだ、行き場のない大いなる矛盾と葛藤を、すべてガスにぶつけていた。歳の近い、紛れもない「男」に自身を重ねて見ることで、なにか安心していたのだ。

 同一視するには格好の的だった。彼は下男で自分の命には元より背かない。口数少なく、間抜けと呼ばれて誰からも相手にされていない。リシェルだけの「男」だった。

 いつか彼のようになる。なれるはずだ。そう思うことで自分を保ってきたのだ。彼がいたから毎日髪を梳き、長いスカートを引きずる事も我慢した。女言葉も、裁縫も、淑女の振る舞いのすべてを我慢してきた。

 逃げられないその日が来ることも分かっていた。それでもガスがいれば我慢できると思っていた。

 しかし、間違っていた。

「私がすべて間違っていたんだ……」
 嫁ぎ先に彼を連れて行けるはずもなく、リシェルは女で、ガスはリシェルではない。
「ガス、お前は正しい。いつだって、お前は正しい」

「我が君」
と、ガスはリシェルに呼びかけた。それからよどみなく語った。
「あなたの肉体はここにあります。しかし魂は違う。それを誰も見ることはできません。あなたの魂はあなただけの物だ。どのような形をしているのか、誰も知ることはできず、誰も奪うことはできず、そして誰も穢すことはできません」

 ガスは言った。何の迷いもなく。
「行きましょう」
「行く? こんな夜更けに、どこへだ?」
「我が君。恐れることはありません。あの日越えられなかった壁を越えましょう」

 リシェルは目を剥いた。

「ガス、お前は……。どんな考えを持っているというのだ?」
「今は言えません。しかし、あの日からずっと計画してきました。私はただの馬屋番ですが、あなたは私を選んでくださった。だから、私はその恩に報いたい。あなたが進む道を守るのが私の役目です。そのために、万策を尽くしてきました。時間がありません。ご決断ください」

 リシェルの瞳が揺れた。失敗すれば、自分はまだいい。厳しい叱責で済むだろう。だが彼の命は、ない。

 ガスは急きたてた。

「どうか私を信じてください。リチャード!」




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