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『オルダニアの春』14・創作ファンタジー小説(約2500字)

見捨てられたエルフ、古代の壁を修理する異種族、七大騎士の娘とその従者——架空の大陸オルダニアを巡り、複数の主人公の想いが絡まり合う物語


第2章 ガスとリチャード

プロローグ


 ブルネットの少女に手を引かれて駆ける。

 雑木林の獣道だった。木漏れ日がきらめいているが、濃い緑の中は肌寒い。

 時折彼女が枝を踏む。その音が森の中に響き渡り、誰かに見られやしないかと気が気ではないのだが、十二歳の彼女は一心不乱に前だけを見据えて走っている。掴まれた手は、痛いくらいに力んでいた。

 どうしてこんなことになったのか。

 なぜ彼女がこうしているのか。

 そしてなぜ、自分は彼女を止めないのか。

 ガスはされるがままだった。

 やがて彼らの目の前に現れたのは、壁——……

 風に揺れる木々のざわめき。少女の荒い息づかい。右にも、左のも、果てしなく伸びる絶望の壁。

 少女が自分を振り返る。その茶色の瞳は、悲しみでいっぱいだった。

 その瞬間、彼は覚悟を決めた——……



第1話 何を守る鉄壁か


 『東の鉄壁城』を治める家長エセルバートには、男女二人ずつ子供がいる。
 十五歳のリシェルは末の娘だった。

 オルダール人にしては明るい、絹のようなブルネットの髪と、凛々しいダークブラウンの瞳。年頃の少女らしい愛らしさと、両親の教育が伺える聡明さを兼ね備え、彼女が微笑むと花が咲くようだと美貌の誉れ高かった。

 その彼女は今、二人の下女に代わるがわる寝巻きへの着替えを手伝われているところだった。

「今日のリシェル様は、一段とお美しくていらっしゃいました」
「あのような素晴らしいお申し出を受けられて、リシェル様の美貌にますます磨きがかかったことと存じます」
「本当にお幸せなこと。ギャラン様は、数日のうちに到着されるとか」
「リシェル様、本当に……」
と言って、二人は身支度の締めくくりに声を揃えた。

「このたびは、ご婚約、おめでとうございます」

 二人を下がらせると、リシェルは後ろ手に扉をパタンと閉めた。

 その格好のまま、大きなため息をひとつ。窮屈なドレスから解放されても、彼女の心には重しが乗ったままだ。

 リシェルはベッドの下から棒きれを引っ張り出すと、大きな扉の取手にしっかりと嵌め込んだ。

 まったく、こんな作業のひとつに梃子摺るとは、なんと弱々しい体なのだろう。などと、落ち込んでいる場合ではない。

 ブルネットの髪を揺らして窓辺に駆け寄ると、辺りを見回して窓を開ける。
「ピュー、ピュピュピュー」
 鳥の鳴き真似の口笛に、「ケンケーン」と狐の返事。

 間もなく、下男のガスが現れた。
 着古した粗末な服の上からでも、日々の労働から自然と鍛えられた肉体が見て取れる。硬そうな黒く短い髪と、黒い瞳。額にこれまでの苦労が浮かび、眉は太く、吊り上がっていた。

 彼は二階建ての城の壁をものともせず、夜陰に紛れてすいすいと登り、窓からひらりと部屋に侵入した。

「誰にも見られていないな」

 念の為の確認に、忠実な部下はこくんと頷いた。

 彼は厩番で、「間抜けのガス」と呼ばれる、なんでもない男だった。
 教会に預けられた孤児だったのを、慈善事業としてエセルバート家に引き取られたのだが、仕事ぶりは悪くないものの、まるで口を縫いつけられたかのように言葉が少なかった。

 正確な生まれ年は知らないが、リシェルとは二つと違わないようで、もっと小さな頃は本物の兄妹のように野山をかけて遊んでいた。リシェルは実の姉と違って、男の子の遊びを好んだ。

 年頃になれば落ち着くだろうと、末っ子の特権で放っておかれたが、いつまで経っても追いかけっこに剣術遊びから卒業しない。

 見かねたリシェルの父、領主のエセルバートが三年前に、二人に許可なく会わないようにと命じたのだ。

 それで、この有様である。

「私は嫌だ!」
と、リシェルはきっぱり言い切った。檻に入れられた動物のように、部屋の中をぐるぐると歩き回る。ろうそくの火に、影絵が壁を左右に動く。

「なにがギャランだ。見たこともない男の元に、どうして嫁いでいかなければならない?」

 答えが欲しい疑問ではない。ガスはいつもどおり、黙って聞いていた。

 悪態をつかれているギャランという男は、オルダニアの覇者、エドワード王の三男である。王位継承権にはやや遠いが、大陸では常に何が起きるか一寸先は闇。ふとしたきっかけで王妃になるかもしれない縁談だ。願ってもないことである。

 いったい国中の、どれだけの女の子が憧れるだろうか。まさに王子様との結婚だ。かねてより確執のあったエドマンドの息子に嫁いだ姉からは、祝辞と称した嫌味が届いた。幸い夫が彼女に惚れ込んで大切にされているようだが、人質に変わりない。

 あるいはこうも考えられる。これがまとまれば、オルダニアの北部はすべて夫婦のもの、そして生まれてくる長男のものになる。そうなれば、リシェルは「北の母」だ。

 だが、彼女は苛立っていた。

「お父様は勝手だ。私に何も聞かないで、すべてを決めてしまわれた。私は、お父様がエドワード王の七大騎士の中で権威を増すための、ただの道具なのか? お姉様はエドワード王の腹心、エドマンド様へ嫁いでいかれて、あの祝辞の他は音沙汰なし。女は、結婚すれば相手の家のものになる。もう私は『鉄壁城』のリシェルではなくなってしまう」

 彼女は感極まって、天蓋付きのベッドへ飛び込んだ。

「嫌。嫌だ。私は嫌! 私はここを出たくない!」

「リシェル様」と、間抜けのガスが口を開いた。「お嫌なのは、家を出ることですか? 結婚が、ですか?」

 聞かれて、リシェルは身を起こした。
 彼女は、なぜガスがマヌケと呼ばれているのか理解に苦しむ唯一の人物だった。
 質問と自身をよく照らし合わせて、リシェルは答えた。

「いいや。どちらも嫌なことではあるが、核心ではない」
「では、何が?」

 鋭く短い問いかけは、物事を的確に貫く。彼は思考するのだ。頭の中で考えを揉んで、必要なことしか口から出さない。思いつきを口からこぼして、実のない戯れ言を繰り返すより、ずっと賢明である。

 リシェルは返答できなかった。
 答えはあった。しかし、言えない。

「リシェル様」

 その声は、尋ねているのではなく、リシェルを鼓舞し、あるいは責めるように聞こえた。

 彼女はキッと唇を引き結び、ガスを睨みつけた。

「服を脱げ。ガス」

 それは有無を言わさぬ主人からの命令だった。
 ガスは従って、シャツを脱ぎ捨てた。




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