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『オルダニアの春』17・創作ファンタジー小説(約2000字)



第4話 揺れる馬車


 リチャードは、夢の中をフワフワと歩いているようだった。

 嘘みたいだ。
 自分の足で、城門をくぐった。
 今まさに、堀にかかった橋を渡っている。
 寒い。
 風が吹いている。

 堀の向こうは、また塀だった。先祖の策で、城の周りは町自体が迷路のようにできている。

 ガスに手を引かれながら、リチャードは何度も振り返った。平地の城塞といえども、居城自体は土塁を積んで高台にある。その壁が、幾度となくリチャードに悪夢を見せた壁が、どんどん遠く、小さくなっていく。

 ふいに、風の冷たさに体の芯が冷やされた。
 私は一体、何をしているんだろう。
 今ならまだ間に合う。外の空気が吸いたくて、ガスに無理を言ったのだと弁護すれば。

 だが、でたらめに切った髪の先端が、リチャードの頬を刺激した。

「ここからは、急ぎます」

 冷え切った指先を包むガスの手に力がこもった。
 リチャードは、それを自ら強く握り返した。

「行こう。ガス」

 どこまでも。
 お前にすべてを委ねよう。

 狭い路地を右へ左へと折れる。あたりは真っ暗だというのに、ガスの歩みに迷いはない。

 町には昼も夜もなく、治安維持のための兵士が配備されているはずだったが、町の外れに出るまで誰にも遭遇しなかった。

 見慣れぬ草むらは、やがて森になっていった。
 町の東側かもしれないと、リチャードは思い至った。

 城内にも人工の花園や森があって、彼らの目を楽しませてくれた。また、それらは有事の際に食料になったり、目隠しになったりするのだと、リチャードは父から聞いていた。同じように、城外にも草木の茂る場所があり、それは城の窓からもこんもりした緑を見せていた。

 ガスは今、草むらを掻き分けて森を奥へ奥へと進んでいく。高台の城から見下ろしていたときは、両手で包んでしまえそうな緑の塊だったのに、中に入ると複雑な様相を見せていた。

 夜の森ほど恐ろしいものはない。
 木々はざわめき怪しい音を立て、得体の知れない鳴き声がこだまして、どこかから見張られているような錯覚に陥る。

「ガス……」と、リチャードは思わず口を開いていた。ここでも話してはいけないのだろうか。「俺たちは、どこへ……」

 その途端、彼はぴたりと立ち止まって、リチャードを横から押して倒木の後ろへ隠した。
 湿気を含んだ土の匂いがムッと鼻についた。

「ガス?」
「しっ」

 追っ手か。
 にわかに緊張が走り、全身の筋肉がギュッと硬くなった。
 だが、違った。

「ここでしばらく待っていてください。私はあそこへ」

 彼が指したほうには、小屋があった。
 ここに暮らしているものがいるのか。リチャードは驚いた。木製の、作りは簡素だが広さのある平屋だった。馬小屋までついている。
 それらが見て取れたのは、窓灯が漏れていたからだ。

 ガスは腰を屈めたまま家に近づくと、あたりに注意を払って、戸を叩いた。

 リチャードは両手で自分の口を覆っていた。そうでもしなければ、今にも意味もなく叫び出してしまいそうだった。

 中から小屋の主人と思われる、小柄な男女が顔を出した。遠くて表情までは確認できないが、ガスを前にして遠慮がちに立っている様子だった。
 二、三言交わすなり、ガスは取って返す。すでに話はついているようだ。

「彼らは仲間です」と、ガスはリチャードの手を再び引いた。「時間をかけて、私が調略しました。馬車で町の外へ出ます」

 短い説明だけで、リチャードは納得するしかない。ここで意見を挟んだところで、戻る道もない。

 さっきの男女は、見るからに善良そうな老夫婦で、彼らは準備の整った、二頭立ての荷馬車を引いてきた。
 どうやって言いくるめたのだろうか。二人は真剣ながらも穏やかな顔をしている。

 荷馬車などに乗るのは初めてのことだった。恐る恐る木の上に座ると、ガスはヘリにしっかり掴まるよう身振りで示してきた。

 夫婦が御者席に乗り込む短い間に、ガスは改めてリチャードの顔を見て、自分の行いを振り返ったようだった。

「お気に入りでしたのに。申し訳ありません」
 それが乱雑に切られた髪の毛であることは、リチャードにはすぐにわかった。
「構わん。すぐに伸びる」

 オルダール人は、地位によっては男でも髪を伸ばす習慣があった。
 短くしているのは使用人や町人以下。労働時に髪が邪魔になる身分ということだ。逆に、分不相応に髪を伸ばしていると馬鹿にされる。リチャードの父エセルバートも肩のあたりに揃えていたし、エドワード王は黄金になびく豊かな髪を持っていると聞く。ギャランも、そうだったのかもしれない。

 リチャードは笑った。

「いや、もう伸ばすこともないだろう」

 呟きは、動きはじめた荷馬車の強烈な揺れと音にかき消された。
 森を抜ける頃、ガスから幌の中に身を隠すよう言われた。

「息苦しいでしょうが、しばしの辛抱です。身動きひとつなさらないように」

 もはや彼の言に従うことに不安はなかったが、さすがに周囲の様子が一切見えない状態には緊張した。

 いよいよ、『東の鉄壁城』を出る。

 雨風を避けるために分厚く織られた荷台の敷布は、リチャードとガスを押し潰さんばかりにのしかかってきていた。二人分の呼吸で、徐々に息苦しくなってくる。

 相変わらずひどい揺れだ。

 ギュッと目を閉じていたリチャードは、胸の前に組んだ指が何かに当たって片目を薄く開いた。

 ガスの手だった。




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