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『オルダニアの春』18・創作ファンタジー小説(約2000字)



第5話 闇を駆け、海へ


 彼の表情はないに等しかったが、内側に秘めた情熱と期待、必ずやこの任務を遂行するのだという確固たる意志が、全身からみなぎっているのを感じた。これほどまでに気負って、それが幌や荷台から溢れ出ないか心配になる。

 だが、おそらく『古代の壁』の門に到達したのだろう、一度停止した馬車は、門番と簡単なやりとりをするや、あまりにもあっさりと再発進したのだった。

 スピードを上げることもなく、老夫婦は平静を保ったまま、馬はどんどん町を離れていく。

 思わず起きあがろうとしたリチャードを、慌ててガスが制した。
 闇に慣れてきた目は、彼の唇が「まだです」と動いたと見てとった。錯覚かもしれないが。

 やがて十分に進んだところで、「どう、どう」と老人の声がして、二頭の馬は息を合わせて立ち止まった。

 ガスが幌を持ち上げる。

 リチャードの目に、宝石のような星々を散りばめた、吸い込まれそうなほどの夜空が飛び込んできた。

 空に落ちる……と思った。

 その瞬間、ふわりと体が浮かんだのは、ガスに抱き起こされたからだ。

 ぼんやりしている場合ではない。

 見渡せば、左右には小麦畑が寂しく広がり、オークの木の前で道が二つに分かれていた。

 夫婦は荷台から一頭の馬を外していた。積荷から、隠されていた鞍が取り出され、馬の背に乗せられる。

「助かった」
と、ガスが声をかけると、夫婦は恭しく頭を下げた。

「もったいないお言葉です。すべてはクルセナ様のお導き」
「お役に立てたことを、こころより感謝申し上げます」

 何の話か、リチャードにはさっぱり見えてこなかったが、聞きたくもないと思った。

 それよりも、次の瞬間、下男の身でありながらガスがひらりと馬に跨るのを目の当たりにして、リチャードは腰を抜かしそうになった。

「さあ」
と、手を伸ばしてくる。

「お前、馬に乗れたのか」
「それは追々。急いで」

 夫婦に助けられ、ガスの前に跨がると、彼はしっかりと手綱を取って馬の腹を蹴った。

「はっ」

 かけ声に呼応して、黒鹿毛は闇を切り裂いて走り出した。
 振り返れば、老夫婦はこちらに向かっていつまでも頭を下げている。

「あの二人は?」
と、ガスを見上げると、彼は前方に意識を集中したまま、「心配ありません」とだけ答えた。

「しっかり鞍に掴まってください。急ぎます」

 馬は全速力で『王の道』を駆けた。

 リチャードも父に乗馬を習ったが、女に早駆けは許されなかった。
 ガスはどうやって訓練したのだろう。

 身を切るような冷たい風が、リチャードの鼻と頬を掠めていく。ガスは寒くないのだろうか。

 二人を乗せた黒鹿毛は、月から逃げるように走り、やがてその月も西の地平線に沈んでいった。

 周囲が白んでいく。
 そして柔らかいクリーム色の光が、夜のとばりを押し上げていく。
 こんな光景、見たことがない。

「綺麗だ……」

 口をついて出た率直な感想は、ガスの耳には届かなかったようだ。
 道は緩やかな下り坂になり、目の前が一気に開ける。

「海です」

 ガスが言うまでもなく、風に潮の香りが混ざる。リチャードにはそれが何かわからず、ただ「妙なニオイ」と思ってしまった。

 だが、目の前に広がる景色には言葉を失った。

 今まで馬を走らせていた平地は、実は丘だったのではないかと思うほど、遠くの急勾配の坂下に、朝日を受けて燦然と輝く海があった。
 白波を立て、懐に大小何艘もの船を擁し、それは雄大に呼吸していた。

「あれが海か! 初めて見たぞ!」

 リチャードの背筋がピンと伸びた。

「ガス。わかるか? 俺が今どんな気持ちでいるか」

 彼はそれに答えず、手綱を引いて馬の歩みを緩やかにした。

「リチャード様。私はあなた様を敬い、あなた様に仕えることを喜びとしてきました。しかしここから先、このままの関係を保ったまま進もうとすれば、きっと身分を疑われます」

 リチャードは笑い飛ばした。

「急に改まるから何かと思えば。この上、お前にどのように呼ばれようとも構わん。リックとでも、リッキーとでも、好きなように呼ぶがいい。言葉も、気にしなくていいぞ」

「いいえ。そうはまいりません」と、ガスは応じなかった。「人の習慣とは、恐ろしいものです。生まれてからずっと刷り込まれてきたものの見方、考え方は急に変えることはできず、それらは微細な挙動に現れます。私は明日急に一国の主人になることはできず、リチャード様もまた、今日から急に漁師にはなれない。職としてそれを得たとしても、おおよそ『らしからぬ』ものになるでしょう。そういうことです。無理をすれば、必ずボロが出ます。それも、絶対的な危機のときにこそ、馬脚をあらわすというものです」

「では、どうすればいい? ずっとだんまりか?」
「そういうわけにもいきません。が、私に一案あります」
「なんだ? なんでも言ってみろ」
「我々は、孤児だった、ということにします」
「ほう」

 突飛な案は、リチャードを惹きつけた。

「『東の鉄壁城』の貧民街で、兄弟同然に育ちました。今日通りかかった、森の辺りです」

 あの真っ暗な森を駆け抜けたのは、もう幾年も昔のことのように思えた。

「私たちは子供の頃から領主と使用人になりきって遊ぶうち、それが板についてしまった。これを覚えておいていただければ、きっと誤摩化しきれましょう」

 リチャードは笑った。

「お前は本当に面白い奴だ。わかった。それでいこう」




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