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『オルダニアの春』19・創作ファンタジー小説(約2000字)



第6話 不安な船出


 馬の首をなだめて完全に足を止めると、二人は背中から滑り降りた。ガスは鞍を無造作に草むらへ投げ込んだ。

「何をしている?」
「孤児は馬に乗れません。これは懸命に働いて手に入れた荷運び用で、『赤土の港町』に到着したら売る、という段取りです」
「なるほど」

 ガスの行動はいちいちもっともだった。

「毛皮は脱ぎましょう。簡素なものですが、それでも分不相応です。寒いですが、我慢してください。代わりにこれを」
 鞍の代わりに乗せられた旅用の袋から、ボロボロのマントが出てきた。

 再び歩き出したリチャードは、馬を引いて前をいくガスに問いかけた。
「あの町へ行って、馬を売って、それからどうする?」
 町で隠れながら暮らすのだろうか。そう思ったが、違った。
「仕事を探すふりをして、朝一番の船に乗ります」

 逃亡は、思わぬ長旅になった。リチャードはようやく、父の手から逃げるということがどういうことなのか、理解しはじめた。

 二人は町の手前でもう一度足を止めると、地面に手を擦りつけて、泥を顔に塗りたくった。付け焼き刃にしても、これで貧しい町人に見えなくもない。

 この町もまた『古代の壁』に囲まれていて、門の前には人だかりができていた。町へ入る行商に混ざり、背を丸めて列に加わると、畑仕事に出ていく農民たちとすれ違った。

 門番に止められそうになるも、最後の財産の馬を売りにきたとガスが縋りついて訴えると、面倒臭いと思われたのか、すぐに放免となった。

 町は海に向かってなだらかな下り坂になっていて、どの通りにも活気がみなぎっていた。夜明けから朝早くにかけての漁が終わった漁師たち、その後始末をする女たち、獲れた魚で商売をする市場。呼び込み、競り、子供の騒ぎ声。

 待つように言われた港湾の入り口で、リチャードは一人、眩しそうに目を細めてそれらを眺めていた。

 待ち侘びていた自由。
 それを生まれながらに謳歌している市井の人々。
 さらに向こうには船着場が見えていた。立派な帆船がこっちにも、あっちにも停泊している。内陸育ちのリチャードには、船自体が珍しいが、一目見ただけでその大きさに圧倒され、さっきからそっちへ視線を持っていくのを躊躇っていたのだ。

 今からあれらのうちのどれかに乗り込むのかと思うと、まるでおとぎ話に出てきた湖の竜に飲み込まれるような錯覚に陥る。

 ガスはどこだ?
 遅すぎやしないか?
 まさかどこかで、追っ手に捕まった?

 不安が胸をかき乱す。

 今頃、城では下女が私を起こしにきている。布団の下に丸まっているのが枕だと知って、大騒ぎになっているはずだ。

 ふいに振り返って、忙しなくあたりを見回す。魚市の雑踏の中にガスの姿を探そうとしたが、むせかえるような生臭さしか、そこにはない。

「お待たせしました」
と、やっと彼が現れたときには、心細さで崩れ落ちそうだった。
「どこへ行っていた?」

 いかに自分が非力であるか知らしめられる。今のリチャードには、ガスが最大の、そして唯一の生命線なのだ。いくら自由という空気を胸いっぱいに吸い込んで、背を伸ばして振る舞おうとも、いっとき彼から離れただけで、もうこんな調子である。

 リチャードは情けなくなった。

 彼はなんてことなく答える。
「馬と交換に船に乗れるよう交渉しました。これはおまけです」
と、パンと水を差し出してきた。
「もう乗りますので、口に詰め込んでください」

 言われるままに硬いパンをかじると、リチャードの胃が思い出したように空腹を訴えてきた。ここまでは緊張と興奮で何も感じられないでいたが、夜通し馬に跨って、何も口にしていなかったのだ。

「お前も」
 差し出すパンを、ガスは首を振って断った。
「今はそれしか食料がありません。私はまだ大丈夫です」
 自分よりもよほど疲れているはずなのに、ガスはそう言って視線を外してしまった。

 その言葉を信じるよりないし、リチャードは腹ペコだった。パンと水を交互に喉へ押し込む。その間に、ガスは後ろに回り込んできて、短刀で髪を整えた。より短く、少年に見えるように。

「さあ、行きますよ」

 その強引さは、ここにきて初めてリチャードに二の足を踏ませたが、がっちりと押さえられて前進するしかない。

「あれです」と顎で指したのは、停泊している中でも一際大きな商船だった。帆は真ん中と後ろに計三枚。一番太いマストは、ガスの両腕も回り切らないいのではないだろうか。丸くたっぷりした底は、正面から見上げると口角を持ち上げて笑っているように見えた。すると、さながら突き出た船首に真っ白な女神像は鼻だろうか。

 桟橋と船を繋ぐのは、頼りない木製の板切れて、進むごとにたわんでギシギシと鳴った。何人もの男たちが行き来しているのだから、リチャードの番で急に折れるなんてありえないと言い聞かせる。

 おっかなびっくりのリチャードを、甲板で待っていた男が腕を伸ばして掴んで引き上げた。

「しっかりしろ!」

 御前試合で見る力自慢の兵士のような、強靭で強面の男だった。そんな風体の男たちが、甲板の上には厭というほどうじゃうじゃいた。潮風に荒れた肌と、丸太のような腕だ。

 リチャードは目を回して、出港前から船酔いしたみたいだった。
 ガスが肩を包んで右舷の端へと突き進む。

「大枚をはたいたので、甲板にいても良いことになりました。しかし船長は我々を疑っています。目立たないように、小さくなってしましょう」

 縁から海を見下ろす。細かな波が船に当たって砕けている。今の自分のようだと思った。




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