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同学年で一人っ子位しか共通点がない自分にとっての三浦春馬さんは

自分にとってはある意味凄く複雑な存在でした。彼の持っている要素や歩んできた人生というのはあまりにこちらとは対照的で、眩しく、それ故にしんどい事が何度も有ったからです。

タイトルの通り、同学年(といっても誕生日は一年近く離れていますが)で同じ一人っ子という事で、ちょっとした親近感が昔から一応有りました。「君に届け」のような映画やドラマ、CMで観る雄姿は、本当にさり気無く励みになっていた気がしますし、それは「ああ、同学年の人間がこれだけ活躍しているんだ、だから自分も頑張らないと」という意識に繋がって。

だけど、やはり距離を置いてしまうのが僕でした。彼のようにかっこよくはない、才能がない、愛されていない、仲間だって多くない、華やかな人生を歩めていない、単純にパッとしない等、あの眩しさは時に自分自身の劣等感や孤独を照らしているような気がして仕方なかったのです。そして今、あの日もし運命というものが誰かの人生を裁かなければいけなかったとしたら、それは彼ではなく自分が妥当だったのではないか、と思う位です。

余りにレベルが違う人間は比べても仕方ない、比べる事自体おこがましいというのは重々承知なのに、そんな風に考えてしまうのは、中途半端に共通点が有ったのも原因だったのかもしれません。

ネット上では「彼にも悩みが色々有ったんだ」、という意見が散見されます。上記のような自分からすれば、「あれだけ恵まれていて、悩みなんて有るのか!?」とつい思ってしまいますが、それがある意味彼にとっての悩みだった可能性もあるのでしょうか。様々な要素や才能に恵まれ過ぎた故に、悩みを告白しても「それだけ恵まれているんだから良いじゃん」というように距離を置かれてしまうとか。

おそらく僕も春馬さんと親しかったとしたら、軽くそんな言葉を言ってしまいそうで、実はそんなイメージをしてしまう自分が嫌だったりします(「一見華やかで、恵まれてそうな人なりの苦しみや悩みが有るのだから、それに対してもっと想像力を働きかせなければダメなんだ」と自分の僅かな理性が叫ぶので)。

「恵まれていない故の悩み」よりも、「恵まれている故の悩み」というのはその悩みを共有出来る者が限られそうなイメージが有る分だけ、より深刻なのでしょうか。あれだけの優れた要素や才能を持った人が自らこの世から消えてしまうのは未だに理解が難しく、今回の件は、彼自身について、自分自身について、そして全ての人間が抱えている要素や人生の光と影について、色々考える日々が続いています。やっぱり人間ってよくわからないです。

まとまってなくてすみません!

改めて三浦春馬さんのご冥福をお祈り申し上げます。







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