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フェチはセンシティブ・私は樹になりたい

前振り

 こんばんは🙏今夜もお疲れ様です。
 今日は夜に関係するお話をぼそぼそとします。
 話題が話題なだけに年齢制限したいところですが、世界中を見回すとハニーアンドビーをまともに教わらない、わが国の義務教育その伝統が目立ちます。
 ですから、エッチ(変態)だのエロスだの言わないで最後までお目通しくださいね。

乳房(にゅうぼう)・乳頭・外性器

 あまり踏み込んだ話はしないつもりです(私は医療関係者ではありません)。個人的な嗜癖です。
 私が子供の頃、なかなか乳離れしないから親は私の目の前で哺乳瓶のゴム乳頭を切って見せたり、鋭利なものを示してきていた記憶があり、更に悪いことには両親がまぐわうところに遭遇して子供は見るなと追い返された憶えもあります。
 今でこそ両親の性行為をわざわざ子供に見せるのは児童虐待の一種と捉えられていますね。某有名音楽アーチストが自分の子に見せつけた挙げ句暴力を加えるという、何というかサル以下だなと思わせる記事を目にしたことさえあります。
 うちの家族は有名人でも何でもないのですが、酷い目に遭って性行為が怖くなるところまで行ってしまい、現在の高齢童貞、未婚に至るわけです。

知識で理論武装してもね

 知識で理論武装してもね、ココロの問題は解決するとは限らない難しいものです。男の子だって自分の乳頭や外性器を刺激すると気持ちよくなるのです。小学低学年から卒業までが性行為に至らないまでも、性の目覚めだったのを思い出しますが、それは苦い思い出です。
 学校で仲間はずれ、家では親に隠れて自分の乳頭を指先でいじって刺激したり、鋭利なもので傷をつけない程度に刺激を加えたりというのが、今もマスターベーションの補助として活きています。まあ泌尿器科医のホームページとか見ると、これらは性行為前の「前戯」に相当するものだと知りました。
 小学高学年になってから、教室の掃除中に意地悪な女子に足をかけられ転び、股間を固い床に強打したのを思い出します。あのとき、股間に痛いのか気持ちいいのか分からない刺激が走ったのを思い出します。
 それからというものの、体育の時間の合間にマットに股間をこすりつけたり、中学一年では部活の合間に仲の良かった同級生と「どちらが早く気持ちよくなるか競争だ」といって腹ばいになり、ショーツを汚してしまった思い出もあります。
 その頃、小学からのいじめっ子たちも混じっており、自分の大切な性器をいじめっ子のカシラ格に触らせてその場をしのごうとした苦い経験もあります。そしてあの、キスを強要しコンドームをちらつかせる女の子を差し向けられた、しかも衆人環視のうえで。これ以上の恐怖と辱めはありませんでしたね。そのために、人生の楽しみの半分以上を持って行かれていまに至るわけですから。女性対女性、男性対男性ではこういう場合でも立件はできないのでしょうか?立派な性犯罪だと思うのです。
 中学三年生になって保健体育の座学で性について理論を学ぶのですが、遅きに失する感を否めないです。先生達一体何やっていたの?と非難がましく思うのです。性被害で心の傷を負う女子というものがあっても、男子はその点、保護されにくいのではないでしょうか。

性的多様性、あるいは現代日本のペール・ギュント

 学生の頃、先輩の誘いで行った、個人の英会話教室で私のことを「ニューヨークへ行ったらゲイにモテるわよ」と揶揄したフランス系アメリカ人女性が先生でした。もっともこれは、その教室の外でも私は男性的とは見られていなかったようです。実際、マッチョな社会やサークル活動になじめないのは今もそうです。
 私の場合、中学生の頃までの経験で男性としては「去勢」されていたような感じです。ただただストイックに生きて女性と交わりを持てない、攻め方が分からずただのしつこいストーカー予備軍で終わっていたのです。手の出し方が本能的に分からなくなっているのです。

 小さい頃の私の写真を見ると、おかっぱ頭で眉毛を隠している私の姿がいくつも出てきました。元はといえば両親とも私のなかの「アニマ」、ユング心理学でいう女性性を強く見いだして育ててきたようです。それだけでなく、私の実家周りでは男性は父と私の二人きりでしたので、父がつねづね言っていたとおり、女系家族の出なのです。
 その影響でしょうか、妹は私そっくりのパートナーを見つけ出して家庭を築いてきたのです。妹一家もまた「女系家族」なのです。義理の弟が黒一点いう具合で。

魔王の宮殿 その後

 そんなこんなで郷里の八王子を後に相模原を足がかりにして前職に勤めていました。役所だったので年齢要件に引っかかってやむを得なかった。

 振り返るとこれがケチのつけ始めで、院卒は煙たがられ、他所者の私は縁者もなく避けられる。そうこうしているうちに学校のいじめ同様パワハラで潰されてしまった。給料まで減らされ居場所もなく、気づいたら周りには既婚者ばかりで後輩まで私の目上に、そして味方もなく、精神障害を得て自己都合退職に追い込まれていたのです。

 これが、私の前職での四半世紀でした。精神病の初発が適齢期で、その間に健常者の幼なじみたちは申し合わせたように結婚していましたね。幼なじみに高校生の子どもがいるという手紙には返信欄はありませんでした。さながら故郷に戻ったペール・ギュントのようでした。食うや食わずやの貧しい家系で男子として育った末路が、還暦間際の未婚男性です。

 実際、私が精神障害を得て就労移行支援事業所で障害者雇用に向けて働いている時にも、女子よりもMtFの方にモテやすかった傾向はありました。今もまだ、LGBTQの方には生きづらい社会であることは重々承知です。昔よりは理解が進んで来たのかなと思うのです。

歳をとってから

 今日はカウンセラーの方とお話をしました。老母も初老の私も、これから先は何かを集めるよりもひとつずつ、木の葉が落ちるように失っていくフェーズに入るんですよ、という話も伺いました。

銀杏並木のある街に育って

 私の育った東京西郊の街には街道沿いに銀杏並木があります。銀杏にはオスとメスがあります。私はオスの樹でありながら子孫を残せなかった部類に入るのでしょう。あの幼なじみのつらい手紙で出しました旧姓Sさんも嫁ぐときには、同じ銀杏並木が見送ったはずです。樹は何でも見て知っています。提灯行列のことも、大喪の礼のことも見て知っています。
 私は貝になりたい、ではなく、私は樹になりたい、なのでしょうか。何も言葉を発することも許されず、目の前で何が起きても手も足も出せない。まるで自分の半生を体現しているかのようです。
 黙って自ら朽ち果て切り倒されるまで待つしかないのでしょうか。還暦まであと片手の指で間に合う歳となりました。

2024/01/19 ここまで
2024/01/27   加筆

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