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選択と偶然:サイコロ振ったら文系博士

マイナビ×noteの #あの選択をしたから という企画への記事です。
たぶん文系博士の記事は少数だと思うのと、「文系ポスドクの生活」というブログの趣旨とも合うので、投稿しようと思います。


たまたま博士になりました

2021年3月、僕は立教大学大学院社会学研究科で博士号を取得した。現在は立教大学の社会情報教育研究センター(長い!)の事務局で勤務している、いちおう、現役の研究者だ。
このような自己紹介をすると「勉強が好きなんですね」とか「頭いいんですね」と言われることが、よくある。そのような反応に対し、僕は必ず「そんなことはないですよ」と答えるようにしている。それは謙遜ではなく(研究者は「わからないこと」に取り憑かれている人だ)、僕自身の実感と考えに根拠がある。
なぜ僕がそう答えるのか。それは、「研究者」という進路を選び、道を切り開いてきたという自覚が、僕には薄いからだ。むしろ「気がつくと、たまたま博士課程に進むルートに入っていた」というほうが自分の過去からいっても正確だと思う。つまり研究者の道を選んだというよりは偶然、研究者の道に入ったのだ。以下、その経緯を書いておきたいと思う。

21歳まで研究者という進路はなかった

2008年4月、1年の浪人生活を経て僕は早稲田大学文学部に入った。母校である地元の公立高校の偏差値は50くらいなのでけっこう努力したけれど、運もあった(第一志望の文化構想学部は不合格だったし)。
早稲田大学の文学部、文化構想学部は1年から2年次で専攻を決める。僕は、日本語日本文学コースを選んだ。親の姿を見て、何となく、中・高の国語の先生になろうかなと思っていたからだ。
第二外国語は「少数なので仲のいいクラスです」という紹介を見て、ロシア語にした。社会学は歴史的にみるとフランス、ドイツ発なので、ふつう社会学を学ぶ人はロシア語は選ばない。級友も先生も面白い人ばかりだったし、博士論文にも役立ったので、まあラッキーだったと思う。
研究や勉強の面白さに気づいたのは、2年生だった。中島国彦先生のゼミで読んだ田山花袋『田舎教師』の報告と期末レポートが好評だったことに調子に乗って夏休みの自主ゼミ合宿に顔を出してみたり、友だちから中島義道や竹田青嗣などの思想家を教えてもらったりして、少しずつ読書が習慣づいてきた。とても優秀で、大学院進学を志望している先輩もできた。しかし自分は大学院に進学しようとは思っていなかった。
3年生になり、現代文学系のゼミに入った(朝井リョウ氏がデビューしたらしいという噂は、前期には聞いていた)。後期の報告テーマは自由、文化論でもいいと言われたので、大塚英志の『物語消費論』の枠組みを使って、東京女子流というグループの歌詞やMVを分析した。「ふつうの女の子」が「アイドル」になるためには「物語」という層が必要なのだ、というようなことを言った気がする。これも好評だったので、卒論もそんな感じにしようかなと思っていた。
夏休みから後期にかけて、マイナビやリクナビに登録したりする人が増えていた。文学部は比較的、動きが遅いとはいえ、インターンに行くような人もいた。僕はどこにも行かなかったが、登録はしていた。とはいえ、3年生の後期には説明会に行ったりエントリーシートを送ったりもしていた。大学院も頭の片隅にはあったが、教育実習に行くまでは就活をして、ダメなら夏前から勉強して高校の教員になろうかなというような気でいた。
しかし、4年生になる前の春休み、全てが変わった。

2011年3月11日14時46分

その日、僕はエントリーも兼ねた説明会のために西新宿のとあるビルの20階くらいにいた。グループワークをしていた時、視界の全てが激しく揺れた。人は地面に伏せた。キャスター付きの机とイスは相互にぶつかったり、壁に当たったりしていた。
5分ほど経った頃か。少し落ち着くと、現状を把握するためにみんな携帯を見たり電話をかけたりしていたが、ろくにつながらなかった。Twitterだけがまともだったとわかり、僕もTwitterを見た。震源地は東北地方、阪神淡路大震災級の災害になる可能性が指摘されていた。
その時、「阪神淡路大震災では何度か大きな地震があった」という投稿がリツイートで回ってきた。それを見た僕は「このままいたらビルが耐えられるかわからないな」と思い、面接官に「帰れる人は帰ってもいいのではないでしょうか」と言った。電車は止まっていたし道路は渋滞していたけれど僕は歩いて帰れるところに住んでいたから、自分だけでも助かろうと、そのように言った。汗をかきながら階段を降り、帰路についた。階段の壁にはヒビが入っていた。ここを離れて正解だ、生きて還れる、と思った。
就職活動は、2週間ほど止まった。再開されても、僕はエントリーを増やすことはなかった。教育実習が迫っていたのと、もうこの時には、大学院に進学しようと思っていたからだ。4月に入り、大学院に進学した先輩に、大学院試験について相談をした。過去問なども取り寄せて勉強を始めた。
教育実習の前に実家に帰り、親兄弟にそのことを告げた。親は反対したが、兄弟と親戚に説得され、しぶしぶ折れた。

どうせ拾った命なら…

大学院に進学を決めたときの気持ちはうまく言えない。確実なのは「死ぬと思ったら生きて還れた」という思いだ。僕が今生きているのはたまたまで、拾った命だ。拾った命だから、いつなくなるかわからない。教員も就職も、他人からの期待が含まれている。しかし、他人の期待に従ったままで死んでいいのか? いつ死ぬかわからないのなら、誰かに期待されていることではなく、自分のやりたいこと、面白いと思うことをして生きよう。たぶんそのように思った。
早稲田の院には面接で落ち、立教大学大学院文学研究科に進んだ。その後も色々な出会いがあり、縁あって、社会学研究科で作田啓一論で博士号を取ることになった。作田啓一を研究したのは、「この人の書く言葉なら、自分のモヤモヤを言語化できる」と感じたからだと、今になって思う。

自己責任論に抗う:選択と偶然

以上が僕が大学院に進学した経緯だ。
ここで冒頭の「勉強が好きなんですね」とか「頭いいんですね」という反応に戻ろう。僕はこのような反応に、多少の戸惑いを覚える。僕は別に大学院に進学しようなどと思っていなかった。友人や先輩との出会いや先生からの評価など、様々な偶然や縁があって、大学院の進学という選択肢が僕の中に生まれた。最大の転機は、3月11日の地震だ。これがなければ僕は大学院に進学してはいなかったと思う。
「勉強が好きなんですね」という反応の背後には、「この人は研究者になりたくて、自分でその進路を選んできた」という想定があるのだと思う。それもそうだ。「進路選択」という言葉に典型的なように、私たちの社会には、人は自らの未来を自分の判断と責任に基づいて選ぶべきであるという通念がある。その通念が過去と現在に適用されるなら、その人の置かれている現在の位置は、その人の過去の選択の結果であるという命題になるだろう(この通念が強化されると「自己責任論」になる)。
だからこそ、進むべき道が定まっている人、進むべき道に向かって懸命に努力する人が評価されるのだ。この「#あの選択をしたから 」という企画にも「勇気を出してあの選択をしたから、今の自分がある」というような、強い意志や決断が期待されているのだと思う。
しかし、そうだろうか。たしかに私も多少の選択や努力、決断はしてきた。しかし、それ以上に私の人生を左右してきたのは、自然の力、様々な偶然と、意図しない縁である。個人の意志や努力、決断なんていうのは、それらに比べて小さく弱い。選択とは、サイコロを振るように、偶然に身を任せる行為なのだ
人生は人知を越えた偶然や縁によって勝手に開けていく。サイコロを振ったのはあなたかもしれないが、それがどう転ぶかは、あなたの責任ではない。結果は誰にもわからないからだ。だから、とりあえず、進路に悩んでいる人や何をすればいいかわからない人は、ゲームでサイコロを振るような気軽な気持ちで、何かしてみればいいと思う。

【参考文献】
井上俊、1977『遊びの社会学』世界思想社.

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