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「大学院まで出たのに」といわれて


 理系大学院を出て、大手建設会社を3年で退職して教員になるという決断をすると必ず誰かに言われるのが
「大学院まで行ったのに」
「○○(←私のいた会社)にせっかく入ったのに」
とよく言われる。
大抵は聞き流せばよいのだけれど、家族や親戚に言われてしまうとどうも心の中にモヤモヤが残ってしまう。

そのような心無い一言を言われてしまうたびに、じゃあ自分にとって
「大学院」「会社」という経験がどういうものだったかをふと考える。
今回は大学院時代を振り返りたいと思う。


 私は学部から大学院に進学する際、研究室を変えている。もともと希望していた分野、希望していた教授の下で学ぶためである。
入ったばかりで研究テーマが決まり、機器の使い方もわからずあたふたする毎日。
・実験装置がない
 私の研究は実験装置を作ることから始めた。
「〇〇ありますか」と教授に聞いてみても
「どこかに転がっていたような~」としか言わない。

「どこかに転がっていたような・・・」については以下の記事を参照されたい→https://note.mu/kouchanshirokuma/n/n76ca917ac377

どこかに転がっているなら、見つかるまで探さなくてはならないし、なければ他の人に借りる、購入する等自分で考えなくてはならない。
 要は、「解決策はどこかに転がっている」と自分に言い聞かせ前に進まなくてはならないのだ。

・後輩が自分よりできるやつ
 大学院生になるということは、後輩(学部4年生)の面倒を見るということである。一方で、私は大学院になって研究室を変えたので後輩と同じスタートラインである。
 後輩は勉強の成績は私より上だったので、馬鹿にされて2年間終わってしまうのかなと思ってしまった。だが、実験装置については自分の方が詳しいということにある日気づいた。気づいた日から、新しい実験を思いついたら寝る前にちょっと実験しに学校に行っていた(家から学校が近かったため)。
 実験→私、理論→後輩
という感じで、装置の扱い方で後輩が悩んでいることがあれば教えることができたし、理論(実験結果の考察)で悩んでいることがあれば後輩に尋ねた。
自分の得意、不得意に気づき仕事を効率化していった。

・絶望と発見の連続で少しずつ希望へ向かっている
 実験を繰り返していると予期せぬ事態に見舞われてしまう。装置が壊れたり、ものが手に入らなかったり、次何をすべきかわからなかったり・・・
 でも、面白いアイデアを思いついて意外と何とかなるものである。そして、何とかなって一息ついていたら新たなトラブルに見舞われてしまう。そのたびに新しいことを勉強したり、いろんな人に相談したりして引き出しを増やしていった。
 調子のよい時は悪くなった時のために備えたし、悪い時は良くなることを信じて頑張れた。絶望と発見の連続で少しずつ希望へ向かっていくことに気づけた。

もちろん、専門としての知識や経験も学んだのだけれども、それを活かせると信じて入った企業は何か違った。それは後々また記事にしてみようと思う。
 とにかく私が言いたいのは、大学院時代に
・こういう気の持ちようでやれば上手くいく
・自分の役割はこれだ
・勉強の大切さってこれだ

っていう発見をたくさんしてきたのである。
私は大学院になってたくさんの発見をしてきたが、できれば他の人はもっと早くそうなってほしい。できれば、子どものときに。それを伝えていくのが私の使命だと考えたので教育の道に進もうと思った。
 だから、「大学院まで出たのに・・・」とか、大学院の専門性や社会的立場だけで物事を論じないでほしい。ここで話しても無駄かもしれないが、親や親戚にそうやって言われるのが他人に言われることの何倍も何十倍も傷ついてしまう。

理系大学院→建設会社→教員(予定)という人生はちゃんと悩んで出した最良の決断だということを主張して今回は終わりとしたい。


サポートでいただいたお金は生活の足しになればと思います。なんとかこの一年生き延びなければ!(笑)