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ベンチに座りながら

天気が良いと思わず外に出かけたくなる。
目的もなく散歩して、同じように外に出かけている人たちの行き交う街で、目的もなくただただぼうっとその人たちを見ているのが彼女の楽しみでもある。
誰にも言わない彼女だけの楽しみなのであるが、実はいま彼女の隣のベンチに座っている男性も、もう50年はそんな一人の楽しみを、自分一人だけの楽しみだと思って過ごしている。

太陽の光を浴びるのは気持ちいいが、疲れてしまうことを知ったのは大人になってからで、光を浴びるだけなのにどうしてこんなに疲れてしまうのか、それに気づいた頃は不思議でならなかった。これまで散々、外で友達と遊び走り回っていた子供の頃、家に帰ると眠くなるのは体を思う存分に、いや、それ以上に動かしているからだと思っていたから。でも、そこには確かに太陽の光の影響があったのだと、いまになるとわかる。

いまでは1時間も太陽の光を浴び続けると疲れてしまうと感じる。
だから、私の散歩は日向と陰を行ったり来たりする。周りになにも建物や木がない公園や大通りは東京にはそんなにないものだから、彼女は快適に散歩することができる。

散歩をしているとき、彼女はなにも考えていない。
きっと難しいことを考えているのだろう、眉間に皺を寄せたり、行き交う車に視線を向けたり、空を見上げて雲の形を確認したり。それでも、彼女は驚くほどになにも考えていない。ただ歩いて、目に映るものを見て、11月の少し冷たくなった空気を吸い込み、鼻腔が冷たくなることを感じているだけだった。
彼女はそれを自覚していた。
ああ、自分はこんなにも物事を考えていないのだなと。冬が始まろうとしていることは感じるけれど、そのほかの感情は湧いてはすぐに消えていく。
違和感を感じていた。
その違和感は日が経つにつれ少しずつ薄れていった。
違和感の原因は彼女の人生だった。
成人するまで、してからの20数年の感覚と、いま感じている感覚が違うという違和感。少し前まで当たり前に感じていたことが感じられなくなってしまうような悲しさすら覚えるようになった。彼女はそれをどう捉えたらいいのかわからなかった。

私はどうしてしまったのだろう。

家に帰り、煙草を吸いながら一息つく。
さっきまで外に出て、散歩をして、いろいろ見て、聞いて、匂いを嗅いで、家に帰ってきた。思い出す。なにを、というほどに彼女の心にはなにも残っていなかった。ただ外に出て、歩いて、太陽の光を浴びた後の気怠さだけが残っていた。

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