不思議なタイミング

ふとした拍子に、出かけた先で何年も会っていなかった知り合いとばったり会うことがある。まったくの不意に。でも、あ、あの人だとわかるし、そういうときってだいたい向こうも同じリアクションを取っている瞬間だったりして目が合って、お互い近づいていって軽い話をしてみたり。また今度会いましょうよ、なんて言って別れる。

ああ、これは連絡したほうがいいかな、なんて思いながら過ごしているとその1週間後くらいにまた、たまたまその人と出くわすようなことがある。極稀にだがそれは起きる。そしてこういうときは得てして、お互い前回よりも薄めのリアクションで、だいたい目礼くらいで終わってしまう。

だいたいはそんなこと。
でも、ずっと会ってなかった人とこんな頻度で会うって、なにかあるのか?
そう思わざるを得ないとつくづく思う。
不思議な縁というか、タイミングというか、平坦だったグラフに急に出てくるうねりのような時期がたしかに人生には起きるのだと妙に納得したりもする。

そんなことが、読書においても起きることを私は知っている。
そしてごく最近に起きたこと。

学生から社会人になるころ、私は雨宮まみさんを知った。
「東京を生きる」という本をなんの脈絡もなく入った本屋で手にとって、立ち読みし、没入し、絶望した。
あまりにも好きな感じ。そして、もういないという現実。
本を閉じて、帯を改めて見ると「追悼」の文字。
知らないということ、知るということ、そのタイミングがごく最近だということ。さっきまでぼうっと歩いて本屋に入った自分から、一気にそういった現実が頭の中に流し込まれ渦を巻いていた。迷わずその本を買い、近くにあったタリーズで読みふけった。

それから、雨宮さんの本で手に入るものを残らず読んだ。

そんな時期があった。
それから、その経験は深く刻まれたまま、そして私の心の中の拠り所の一つになって、過去になった。

でも変わらず私の本棚には雨宮さんの本があって、いつも目に入るところにあった。でも読むことはなかった。新しい本、どんどん湧いてくるほかへの興味がそうさせることがなかったから。

最近、読みたくなった。
とくに何があるわけではない。不意にそういう気持ちが起きる。
毎日のいろいろで、そのときの悩みや問題や、どうにかしたいと思っていることの組み合わせで心が揺れて、本棚の中から本を抜き出す。
あのとき読みふけった以来、「東京を生きる」を読んだ。
変わらず、好きだった。あのとき読んでいた感覚も一緒に戻ってきた。

あれからもうどれくらい経ったんだろう。
ほんとにあっという間に時間が過ぎるけれど、私はあのときのままかもしれない。いや、なにも変わってないな。思う。

雨宮さんのことを検索してみた。
昨年、新刊が出ていた。こんなタイミングで?と思ってしまった。
よくある勝手なこじつけだってことはわかっているけれど、久しぶりに本を読んで、その作家のことを調べて、ごく最近に新刊が出ていて、それはまるでその本が出ていることを自分が知るべきだったかのように思えてしまう。

その次の日、きっと在庫があるであろう大きな本屋に行って、本を探した。
すごくわかりやすく見つかった。本棚に1冊。平積みでも置いてある。本屋にはよく行くのに気づかないものなんだなと、不思議な気持ちになる。

装丁の、カバーを取り外すとなかなか見たことのない特別な本に感じた。
読み始める。最初から最後まで、一気に読んだ。
読めるし、読みたいし、読み終えるまでのページがどんどん少なくなることが残念でたまらなくなるような気持ちになる。

いまの鬱屈した私自身の状態と、このタイミングと、なにが重なって、
この本を読んでどういう方向に行けばいいのか考える時間になった。


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