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VS うつ病リターンズ Part.1

すべての始まりは9月14日。「母の体調が悪いんだがどうしたらいい?」と夜になって父が声をかけてきた。
母は発熱(37.7℃)、右肩から肩甲骨のあたりに鈍い痛みがあり、倦怠感があって明らかに顔色が悪い。ぼくの訪看さんに助言を聞き、基幹病院の救急外来へ連絡。発熱していても受付してくれるとのことで、ぼくが母に付き添って病院へ行った。

そこから検査ラッシュだった。レントゲン、エコー、採血、尿検査。すると、炎症の値が高く、尿に膿が出ているとのこと。そこで、造影CTで上半身を検査することに。先生たちがとても丁寧に検査、説明をして下さって頼もしかった。結果としては肩甲骨のあたりや腎臓には異常がなく、尿路感染症の疑いが強いということで、抗生剤の点滴をして帰宅。その頃には5時間経過し、日付が変わっていた。しかし、母は今度は吐き気が強くなり、落ち着く気配はなかった。

翌日、9月15日。整形外科と泌尿器科を受診して下さいと言われていたのにもかかわらず、母は不動。昨日よりは顔色が良くなっていたが、連れて行った方がいいと思い、どうにか受付完了。母は一人でいいと言ったので、そのまま送り届けて帰宅。

この日は自分の訪看の日で、夕方にはエアコン修理の予定も入っていた。訪看の時間に、父の透析帰りと母の病院帰りが重なる。母は肩には異常なし。抗生剤と整腸剤、頻尿の薬を処方されて帰宅。これで一安心かなと思いきや、訪看さんが来ている時に父から電話がかかってきて、リビングに呼び出される。すると、内科で炎症の値が問題視されて入院することになったという話をしてきた。父が付き添いで介護タクシーも呼んで、あと一時間半後に行くという。ここでぼくは疑問に思う。
「今はぼくと訪看さんの時間なんだから、後で話せばいいのに」
このあたりからぼくのメンタルは弱っていたのだが、決定打は母に「うつ病にまたなりそうかもしれない」と言った時に「やめてよ」と言われたことだった。ぼくの表情は動かなくなった。

ぼくの両親は、ぼくを心配するということがない人だ。物の援助は気にかけるが、心や感情に寄り添うということは一切ない。母に夜中まで付き添ったのも虚しくなったし、やたら母のことを心配する父を見て悲しかった。ぼくがうつ病で動けなくなった時に、一言も声をかけなかった父。むしろ、叱るのを我慢してやってるんだという上からの態度。ああ、父は妻を愛してはいる。だが、ぼくを愛すことはなかったのだと。

あまりの虚しさに、訪看さんに電話して話を聞いてもらった。ごめんなさい、ごめんなさいと泣いて謝りながら。ぼくがうつ病になる直前と同じだった。感情が大きくうねる様に燃え広がり、溢れ出した涙でその炎を消した先には無が待っている。喜怒哀楽と興味の消失。スタエフのラジオも録ったのだが、怖くて自分では聴けてはいない。

そんな嵐の中でもエアコンの業者さんは来るわけで…。吹き出し口から水飛びしてきて、その音がストレスになってしょうがなかった。同じ温度設定でもやたらキンキンに冷やす時もあれば、湿度をまとった生気を感じられない送風をする時もあった。エアコンまで情緒不安定にならなくてもいいのに。メンテナンス工事をしている間、ただぼうっとしていた。何かする気力がなかった。ちいかわのアニメを無表情で観るおじさんになっていた。

エアコンは無事に修理が終わり、母の入院手続きも済んで、とりあえず一息ついた──はずだった。だが、現実は容赦ない。今度は父が体調を崩したのだった…。

(つづく)

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