それは自己責任だったのでしょうか?
「自己責任」
1 自分の行動の責任は自分にあること。「投資は—で行うのが原則だ」
2 自己の過失についてのみ責任を負うこと。
(デジタル大辞泉より)
私はこの「自己責任」という言葉が嫌いです。自己責任という言葉がおかしいとは言いません。「自分の行動の責任は自分にある」というのは、責任能力がある人間にとっては当然のことだからです。
自分で決定し、自分が行動したことに、自分が責任を負う。責任のとり方は、法律の定めによるもの、その場所や組織、人間関係のルールによるもの、自分自身の信念によるものなど、様々だと思っています。
そして、それを背負うのはあくまで「自分」であり、「他者」ではありません。それなのに、責任を取るわけでもない他者から「自己責任」と無責任に言われることが嫌いなのです。自己責任は自分に対して向ける刃であり、他者へ向ける刃ではありません。他者へ向けた自己責任など、無関心から生まれた暴力でしかありません。
人間は社会で生きています。社会とは人間関係の海です。自分で決められることもあれば、決められないことも数多くあります。そもそもこの世界に生まれることすら、決められないことの一つです。
親に愛されたのか。
家庭環境と教育方針はどうだったのか。
裕福か貧困か。
先天的な病気や障害を抱えているか。
義務教育というシステムの中でどんな出会いがあり、どう過ごしたのか。
いじめはなかったか。
思春期に寄り添ってくれる先生や仲間たちはいたのか。
未成年の間は決められないことの方が多いのです。
しかし、そのことが成人した後も根深い問題として残るのです。
成人すれば、法的に責任能力を持ち、自立することが可能になってきます。
ただ、それは可能になるようで、不可能な部分が多いのです。その時代背景や文化、景気動向、政治や国際問題、仕事に選んだ業種や入社した企業によっても千差万別でしょう。
自己責任という言葉でまとめられるほど、単純ではありません。
そこには多くの要因が絡みついているのです。
だから、相手の人生や苦しみを知らず、責任も取れない他者が「自己責任」と言って片づけることが嫌いです。振るうとしても、自分が自分に振るうべき言葉です。
他者は、それは「自己責任」だったのだろうか?
社会の在り方や制度で救えることはなかったか?
責任を取る事態になる前に、できたことはないだろうか?
そう問い続ける必要があると思っています。
それは自分ではない誰かのためであり、未来の自分自身や社会のためでもあります。
私は考えすぎなのかもしれません。
それでも、考えずにはいられないのです。
それは「自己責任」だったのでしょうか?
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