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「本当の私を生きる31日間プログラム」Day8

毎朝Yumiちゃんのnoteを読んで、その日のテーマについて感じたこと、思ったことを書き綴っている、このプログラム。

最初はただひたすら書いて「自分」を見つめていたのだが、時間が経つとこのnoteを読んでくださっている方の反応が気になり始めている自分に気づき始めた。

こういうタイミングが来るとわたしは自分に素直になりにくく、誰かを意識し過ぎたものになる傾向が高いため、今日はちょっと時間を取ってゆっくり見つめてみようと思う。

さて、Day8のテーマについてYumiちゃんのnoteはこちら。

Day8:「不快」を感じる

①あなたが不快に思うのはどういうことでしょうか?
②まずはその不快と思うことを受けとめましょう
③どうしてその状況を不快だと感じるのでしょうか?
④自分がなぜ不快になるか理由が分かったら、その感情をずっと持ち続けていたいか自分に聞いてみましょう。
「今はしばらく持っていたい」という回答がやってきたらそれは持っていていいし、「いや、今はもう手放していいかな」と思ったらありがとうって言って手放していきましょう。


①あなたが不快に思うのはどういうことでしょうか?

最近不快というか、心地よくないと感じることがあった。

このプログラムDay7で1週間を振り返った際に、自分が本当に好きだと思うことをこんな風に書いた。

自分の内側に向かって対話している人に対して、「あなたはこんなところが素敵」「ここが輝いている」と伝えるのが堪らなく好き!!!

これは本当にそうで、わたしの根幹を成すものなんだなと感じている。

それは熱狂的に「素敵!!」と伝えるというよりは、淡々と「ここが素敵なところで敵わないと感じます」とか「自然とこういうよさが溢れちゃっていますね」という感じで伝えている。
(相手が受け取ってくれることを確認もしくは感じた上で)”伝えること”が堪らなく好きなのだ。
極端な話、ご自身が「嫌だ」と感じていたとしても、「その嫌という気持ちを〇〇のように感じられて、それをそのまま素直に表しているところをいいなと感じました」という感じで伝える。

その人がただ自分に向き合った時に溢れ出す、あの尊く清らかな感覚をどうにかして言葉で伝えたいのだ。

これは人に対してだけでなく、面白いと思った本を読んだ後や、落ち着くなという風景を見たときも感じることをなんとかして言葉にしてみたいと強く感じる。

しかしこれを書いた後、たまたまネット上で掲載されている文章を読んだ。そこには
「誰かが気づいたことや感じたことについては「あなたってそう思うんだね」と、自分の内側で感じるものだと思う。それについてどう感じたかについて、わざわざ伝えるというのは違うと思う。」というようなことが書いてあった。
すぐ後に、別のところでも似たような意見(こちらはもっと柔らかい表現だったし、意図するところは違うように感じたが、使われていた言葉が一緒だったことと、先に強烈な方を目にしたため心に残った)を目にした。


②まずはその不快と思うことを受けとめましょう

連続して似たようなことを読んだわたしの頭の中には、
「がーーーーん!」という音が響いた。

わたしが好きで自然とやっていたことは、誰かが不快に感じること(とは書いてなかったけれど、よくは思われていないのだろうと感じた)なのだ、と直接言われたような悲しくやるせない気持ち。

わたしが自然と喜びからやってしまうこと。
それが誰かにとっては不快なのだということ。
「あの人こんなことやってる!嫌だ」と思われているかもしれない、ということ。

もっというなら素の自分を出して嫌われるという怖さ。
出しちゃダメなのか!という怒りにも似た気持ち。
そういうものがあった。


③どうしてその状況を不快だと感じるのでしょうか?

さっきも書いた、
「出しちゃダメなのか!」ということからも
「自由に思ったこと感じたことを表現することを妨げられた」という感覚があるらしい。

そして幸いにも、これまで「相手のよさを伝える」ということをしてきて、一緒に喜んだり、改めてその人自身が「これでよかったんだ」と安心すると感じた場面にしか遭遇してこなかった。
その場に嫌な感情はなかった。だからこそ「それって違う」と言われることに強く反発してしまった。

わたしの「自由に表現する」ことと、「伝えた相手」の双方を否定された 感じがして不快だと感じたのだ。

さらに、正確に”伝える”ときの詳細な状況を伝えらえれていないような自分に対しても、もどかしさを覚えた。
わたしが不快だと感じた文章を書いた人に対しても、きちんと話をしたらもっと分かり合える気がする。

あぁ、この感じは「正確に受けとめてもらえていないことが嫌だ」という昔からの心のくせも出ている気がする。


④自分がなぜ不快になるか理由が分かったら、その感情をずっと持ち続けていたいか自分に聞いてみましょう。
「今はしばらく持っていたい」という回答がやってきたらそれは持っていていいし、「いや、今はもう手放していいかな」と思ったらありがとうって言って手放していきましょう。

しかしこれは、視点を変えたらこんな見方ができることに気づいた。

つまり、
わたしが自由に思ったこと感じたことを表現することを大切にしたいように、誰にだって思ったこと感じたことを自由に表現することができるのだ。

これは自分だけの権利ではない。
誰だって思ったこと感じたことを自由に(節度は必要だが)表現することができるのだ。

今回に関していえば
「そっか、あなたはそう感じたのですね」とわたしも受けとめる。
そしてここが大切なのだが、自分の中に湧き上がる感情も「そっか、そう感じたんだね」と受けとめる。

その上で。
自分は何をどうしていきたいか、もう一度考える。
自分の望む方向を改めて見てみる。

わたしはやはり、その人のよさを伝えていくこと、フィードバックしていくことが好きだからこれはこの先もやっていく(というか、気づいたらしているだろう)。
その際には「伝える”場”」を大切にしていきたい。
伝えていいのか?今は受けとめ合える場なのか?ということを意識して。

溢れ出すその人の「素晴らしさ」は本人にも伝えたいし、もし望まれるなら周りの人にも伝えていきたい。
なんとなく゛感じるもの゛を、言葉にしていきたい。
言祝いでいきたいのだ、どうしても。

伝える手段は言葉であっても、伝わるものは「雰囲気」「空気感」だと思う。
その場が心地よいことが大切。


そしてわたしの中から出てくるものは、正直であること。
これを何より大切にしたい。

以前は目の前の人を喜ばせたいあまり、ほんの少しのことを大袈裟に言ったり、本当はそこまで思っていないのにより大きく言ったりしていた。
結果的にそれはとても居心地悪く、たとえ相手が喜んでいたとしても心の中はざわざわしていた。自分が心から思ったことを言っていないことは誰よりも自分が知っていた。
だからこそ「心の真ん中で感じているかどうか。伝えていることは心に反していないか」をチェックする目盛りをかなり細かく捉えられるようになった。
その目盛り機能を最大限に発揮して、今は伝えている。

長々と自分語りをしたけれど、④のお題に対しての答えはこちら。

今回不快と思った感情を手放したいか?に関しては、今はどちらとも言えない。
現在のわたしは「快」よりも「不快」から学ぶことや気づくことが多いからだ。
ただ「不快」をそのままにしておくと、わたしは拗ねた捻くれた感情に変化しやすいので、そこは「受けとめて」「進む」にしていこうと思う。

そして気づいたら、「あのときはあんなことを不快に感じていたんだね」と思い出したりしそうな気がする。

何よりわたしはとある文章をきっかけに、自分の中にある不快を感じたのだが、書いていた相手はわたしのことなんて知らないし(何千人といる読者の内の一人だろう)、ましてや誰かを傷つけようと思って書いたわけではない。
それに反応したのは、わたし自身の中にあるものだ。
反応した感情をきっかけに、自分の中にある考えや思い込みに気づくことができた。

そうやって人は知らず知らずのうちに誰かに影響を及ぼし、誰かの人生にきっかけを与える。
わたしも誰かにそのきっかけを与えているかもしれないと思えば、やはりわたしは素直に心地よさを感じられる言葉で表現していきたいと思った。
(今日は全然できていないけど…)

* * *

今回この気づきを書いた後、一緒にプログラムを進めているEmikoさんの記事を読んだ。
ものすごく心に響いた記事だった(←って、こういう一言感想を書くにも、今回不快だと感じたきっかけになった言葉を思い出してビクビクしてしまうわたしがいる。臆病だな、まったく(笑))。

こんなにぱしっと言葉にできてすごい!と思うし、するんと心に入ってきた。
様々な感情を受けとめて、Emikoさん自身の経験からくる言葉は本当に素晴らしく、だからこそ人に届くのだと感じた。
ぜひこちらも読んでみてほしい。


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