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怒っている人の話と怒っていない人の話

怒りを露わにする事で、「その件に怒っている人同士」の結束や連携のほうは、一層強まるかもしれない。それはそれなりに意味があることなのかもしれない。
が、
「その件に怒っていない人」にまで、自分の怒りのその「意味」や「内容」を届けたいなら、感情を露わにする事は、むしろ逆効果なのか……と知る。

早い話が、「怒っている人の話と怒っていない人の話、もしまったく同じ内容なら、どちらのほうの話を聞きたいですか?」ということでもある。

で、
自分が最もしたいのは、
「怒りをぶちまけてスッキリ」なのか、
「怒りの内容を伝える」なのか。

前者なら、怒りを顕わにしてみるのも、悪くないのかもしれない。(人間だから、「我慢の限界」というものも、あって当然である。)
が、後者が主の目的なら、怒りを顕わにしたら、その目的達成は、まず遠のく可能性が高くなるだろう。

別にどちらのほうが正しくてどちらが間違っていて、と、これは言おうとしているのではない。そういう話ではない。

しかし、ひと時スッキリしたところで結局、「伝わっていない」ままでは、その苛立ちは、いつかグルグル堂々めぐりとなり、そのうち増幅して、下手すりゃ結果怒りのその出口も行き場も失われていき、最終的にただの「怒り損」になる、――そんな可能性もありやしないか? 
そしてまた、こういうのって、実際に今、現実の生活あるいは社会の中で、頻繁にまたは顕著に起こり続けてはいることではないか?と、私は思うのだ。

「喜怒哀楽」のうち、「怒」の感情も、大切にはしていきたい。
しかし、同じ怒りを既に持っている人以外は、なかなか「新たな件」での怒りを、あえて新たに背負い込もうとは、――つまりそこにあらためて「共感しよう」とは、してくれないだろうし。
また、そういう「他人」にとっては、こちらから手渡しても、「扱いに困る」「厄介」とただただ思われてしまう感情が、「怒」なのである。

「怒」のその「感情」についてだけは、むやみやたらに、人にぶつけるものではないのかもしれないなあ。
――と、いうのも、実は、「それを私に言われてもなあ」という内容の「怒り」をぶつけられて、実際最近私も困ったりしたもので、――これをあらためてつくづく「実感」したのである。
でも、その人の「言い方」「伝え方」さえ、もっと違っていたなら、(怒りのその「矛先」が、間違って私に向けられたままではあったとしても、)こんな愚鈍な私でも、もう少々の「共感」くらいはできたような気がするのだ、その人の「怒り」について。

私達には、言葉がある。
もちろん、「感情」を伝えるのにも言葉は有効だ。
が、怒りについては、
「感情」というより、
「気持ち」を、
または、「意見」を、それに付随する「事実」を、
そしてその怒りの、度合いとかではなく「意味」のほうを、
まず表してみようと思うのだ。――やはりそう、「言葉で」、である。

(私個人はそうしようと思った、というだけなので、誰かや世間にこれは要望するものではない。考え方は、人それぞれが良い。)


そうはいっても、たまにはついつい、感情がはじけ出てしまうのも、
人間ですけどね。(笑)


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