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「絶望」はかつて「望み」があったことの証だ

絶望「できる」だけまだマシ、という考え方もあるのかもしれない。

絶望した、というそれは、
かつて一度でも「望み」があったという証だから。

「望む」ということを一切しなくなれば、人は、
(それでも最低限生きていけるなら、)
ラクには案外なれるのかもしれない。
でも、「ホントにそうしたいか?」と、問われたなら、
自分の場合、答えは「否」だろうな、ともまた思う。

いや、ラクはしたいけどさ(笑)、でも、
ラクならなんでもいいわけではない。
ラクじゃなくてもいいから、それでも「望み」は欲しいのだと思う。
何かを望むことを忘れてしまったら、自分は、
人ではないただの「生物」――いや、
生物なら「もっと餌が欲しい」とか「もっと光合成したい」とか
何かしらを望むだろうから、
「生」きるのまで奪われた、ただの「物」になってしまう、
というそんな気すらする。
酸素や水や栄養を次々体内に流しているだけの、
――で、あるにもかかわらず生物ですらない、
そんな「装置みたいなもの」になってしまう、ということだ。

そもそも、自分というものが、
ここにこうして「人間という生物」として存在できていることが、
当たり前のことではないとしたなら。

例えば、このカラダがなかったら、
望むこともできないし、願うこともできないのだ。

そして、何かを望んだり願ったりすれば当然、
結果として「叶わない」ことだってあるにきまっている。

そう考えると、「叶わない」ということさえも
元を辿っていけば、「幸運」の一つなのかもしれない、と思うのだ。

だから、いつまでも「叶わなかった」というところで立ち止まり続けて、
後ろ向きにクヨクヨグチグチ悔やんでいるのは馬鹿らしい。

それに、「どうせ〇〇」だのと、
そんな台詞をいつまでも言い続けているヒマもなし、なのである。

なぜなら、自分の身体に寿命があるなら、
「望む」「願う」という行為にも、寿命があるし、
それに加えて、「結果、叶わなかった」ということにすら、寿命があるからだ。

つまり、身体があるから、
絶望だって「できる」わけなのだし、
また、この身体が永遠にもつものではないのなら、
「絶望できる」のすらも、限りがあって、永遠ではないのである。

「叶わなかった」は、「次へ行ってみよう」「次に行くべき」の
わかりやすいサインの場合も多い。
ならば、構わず次の何かをとっとと望めばいいではないか。
そうして、次々「願い」を繰り出していくのもいい。
また、「それでもどうしても……」と、思うなら、
繰り返しではなく、もう一度同じことでも「改めて」という気持ちで、
「望み直す」というのもいいと思う。

ずーっと、同じ望みを長く引き延ばすから、
大きいサイズの「絶望」になるわけで、
同じ望みでも、少しずつ形を変えるなりして、
「小出し」でその都度新たな気持ちで「望み直す」ようにすれば、
叶わなかった際の「ガッカリ感」も軽くなる気もする。



とにかくまず、身体、大事にしようと思う。

最近、「実感」「体感」として、改めてしみじみ感じるのである。
「物」に寿命があるように、「身体」にも寿命があるのだよな、という、
そんな、わかり切った、当たり前すぎることを。

自分の「持ち物」のうち、
ウン十年ももってくれたものって
「自分の身体」以外で他にいったいいくつあるだろう?

今、この独居アパート内にて自分が所有しているもののうち、
「自分の持ち物」で且つ「自分の生まれる前から存在しているもの」って、
――うむ、なんと一つもないかもしれない。

「身体」って案外、「長持ち」してくれるものだから、
そのありがたみを忘れてしまうのだが、
「長持ち」してくれるものならば、
もっとそれについてありがたがらなければいけない気がするのである。

「生きている」という状態は、何だか不思議である。

同じ肉であることに変わりはないのに、
真夏にそこいらにほっぽっといても、
私の身体は、生きているというだけで、腐ったりもしないという。

でも、この身体にもいずれ
「電源が入らなくなる」そんな日が必ず来るのである。
自分の身体もいずれは、腐る「物体」に還る日が、必ず来る。
そして、いつかただの「物質」に還るんだなー、と。

それは、年数が経てば、
いずれ電源も入らなくなる機械類
――PCやスマホや電化製品や音響機器に例えられたりもするわけであるが、
しかし、それらの機械類と違うのは
壊れたからといって「買い替え」はできない、ということだ。



だから私は、「滅私奉公」という言葉が大嫌いだ。

私を滅ぼしてしまったら、
そもそも、尽くしたくても捧げたくても奉公したくても、
それっきりお終いではないか。

「私」というものを粗末に扱ってまで、
大切にするべきものなんてあるだろうか?
それは本当にその価値があるのか?
(もちろん、粗末に扱いたくないのは、心身ともにである。
何故なら、心と身体は密接に繋がっていると思うからである。)

でも事実上「滅私奉公」を強いられることの多い世の中ではないか?
――誰もがもっと冷静に考えたほうがいい。
いつの時代で感覚止まっているんだよ?って思います。

形なく目に見えない抽象的なものだと解りにくくなってしまうから、
もう「まずは自分の身体を何より大切に」でいけば、
すべては解決するのではないかな?

で、各々がそうしたなら、
他人が「自分の身体を何より大切にする」というそのこともまた
尊重できるようになりはしないだろうか?

これ、最も、
間違ってないし、間違いないし、間違えもしない気がするんだが。

「私が自分を犠牲にしているんだから、おまえも自分を犠牲にしろ」
だなんて、
そんな、誰も幸せにならない、救いのない「地獄」あるか?って話。

でも、その状態に何かしらんが陥りがちなのが、
我々日本人だったりもするよなー、と。

とにかく、自分の健康第一で、
だから、他人の健康も第一で。

で、生きている限り、次々と各々が自ら好きに「希望」を持ちながら、
時々はそれを失ったりもしながら、
各々が「なるべく」長く生きていけたらいいな、
それだけで、何だか、とてもいいのになあ、と私は思います。