「当たり前」と思うほとんどのものは「もらいもの」
人間には、「自分たちの思い通り」に物事を変えていける力が、実際相当ある。
で、そこそこ豊かな国に生まれ育つだけで、この感覚は、より強く擦り込まれている気もする。「思い通り」になることのほうがむしろ当然のことなのだ、というような感覚。
ごく一例だけれど、疫病だって、医学の力を結集すれば、そのうち封じ込めることができるはず、できないわけがないじゃない?となる。
で、実際にそうなっていくケースも圧倒的に多い。
――しかし、である。
そのように、「当たり前と思うこと」の中には、どこか、どうしても、「傲慢さ」が、コッソリと潜んでしまう気が、私はするのだ。
何故そう考えるのかと言えば、「当たり前」といえるものなんてこの世には実はほとんど存在しない、と、私個人は思っているからである。――それなのに「少なくとも自分にとっては」「私だけは」それは当たり前、と思えてしまうのは、やはり「傲慢」といえるのではないだろうか。
ではどうして、「当たり前」といえるものはこの世にほとんど存在しないと、私は考えるのか。
例えば、自分が「当たり前」と思っている「それ」は、この世に生きとし生ける人々全員が、もれなく必ず持っているものだろうか。健康や身体機能、衣食住、安全とか平和とか、自由に考えを述べられることや行動できることとか、また便利な日常のあれこれも、本当に困った時に「困っている」と言える人が誰かしらいることも、――見渡してみて、それらを持ち得てない一定数の人の存在がこの世界のどこかに少なくとも思い当るのであれば、その時点でそれはもう、「当たり前」ではないのではないだろうか。
また、先人が人知を進化させることによってもたらされた例えば文明の、その恩恵を享受できていること――その中身について、ほとんどの人は、自分では発明も研究も開発も携わっていないわけで。元々そこに、誰かが用意しておいてくれたものを、利用させてもらっているだけに過ぎない。――それは多くの場合、その時代のその場所で生活することに「偶々なった運命」によって、である。
「生まれもって」備わっていたというのは、むしろそのせいで特にうっかりしがちだが、そもそも「当たり前」とは違うのである。
「生まれもって」の時点でのそれは、その人個人の努力によって後天的に勝ち得たものではない、ということがまずある。
第一に、自分の身体がそうであろう。私達は自分自身の手で、はじめに脳や内臓を作り骨を組み立て筋肉を装着し血管や神経を張り巡らせて皮膚で覆った……わけではあるまい。(もちろん我々を「産んだ」親達も、自分達の手で直接、その作業をやったわけではない。)また後に意識して「より健康にしたり丈夫にしたり鍛えたり」はできても、それすらあくまでそうなるように「仕向ける」だけで、実際に筋肉を太くしたり骨を強くしたりを、自分自身のこの手でしているわけでもまたない。(「そうなるように促す」その後は、身体がやってくれるのに任せるしかない、ということ。)(ちなみに、歳を重ねると、いくらこちらからこれまでと同じように促しても、身体はあまりそういうのをやってくれなくなります。笑)
――と、「身体そのもの」にまで及ぶと話が大きくなり過ぎて、かえって実感が薄れるかもしれないので。
それは人間に備わる「能力」についても、総じて同じことが言えるから、そちらにも着目してみよう。
まず、元々の「人間としての能力・機能」についてであるが、それもまた「私達自身が」生物として進化してきたわけでもなく、それは「先人達が」進化してきただけ、ということがある。
そして、先天的なものだけでなく、後天的に自分個人が勝ち得てきたものについてさえも、これもまた同様のことが言えてしまうのだ。何故なら、精神的性格的なものも含めてそれを「勝ち得ていく能力」というものを、「それはどこから来たもの?」と元を辿って辿っていけば、どこかで「生まれもって」の「先天的なもの」という「起点」に、辿り着いていくはずだからである。
そう考えると、我々が「当たり前」と思っているあらゆるものは必ずどこかで、元を辿れば、結局「もらいもの」なのである。自力で、自分の努力で勝ち得た、と思っているものすら、である。
もしかすると、「もらいもの」だからこそつい「当たり前」と思ってしまうということもあるのかもしれない。
でもこれ、「もらいもの」とはこの場合「もらえたもの」とも言い換えられるのであって、つまり「もらえない場合もあるもの」なわけだから、そうなるとやはり「当たり前」とは違うはずなのである。
われわれの存在とは、いずれの部分もどこかで必ず「偶然性」の上に乗っかっている存在なのである。――「偶然性」と「当たり前」は、相反する位置に存在しているものだろう。
(とくに自分の身体とその機能などは、いずれ必ず「土に還る」ことになるわけだから、「もらいもの」どころか「借りもの」とも考えられる。「返却期限」が必ずあるわけで、「いずれ返す」ものならば、身体、というかそれはもう心身ともに、大切に扱って使わねばならないのだ。)(――ってその方向に話をもっていくと、また一記事分くらい広がり過ぎちゃうし、自分としてはどこまでも「自然」の話をしているのに、「超自然」とかのジャンルに思われちゃうとそれは少なくともこの記事内ではやや不本意なので、ここまでにしておきます。笑)
ところで。
私は別に、道徳的観点から「当たり前と思って傲慢になるのはよくない」と言っているわけではない。
このnoteの中で何度も繰り返し言及していることだが、(まったく謙遜抜きで)私は「道徳的で善良な人間」などではまったくないのである。
「当たり前」と思い込む「傲慢さ」が何故良くないと考えるのか。
それは、「傲慢」さをもって今自分が得ているものを眺め扱っていると、後で「損をする」のではないかと思う、というただそれだけの話なのである。――つまり私はケチな人間なので損をしたくない、というそれだけのことなのだ。(笑)
今回のコロナウイルスの流行により、これまで「当たり前にできる」と思っていたことが、当たり前にできなくなってしまった。
この、これまでも繰り返してきた「失って初めてわかりました」っていうパターン、ずーっとわからないよりはまだマシなのかもしれないが、でも失われる前にこのありがたみがわかっていたらなあ、もっと違っていたかも?……なんて、私はこの度あらためて、またまた、思ってしまったのである。(何度目だ?自分!!笑)
コロナウイルス流行のせいでできなくなってしまったことが実は私にはいろいろあり、ならば気晴らしに何か別のことをやろうとしてもまたそれすらできないということも多く、……あれもダメ、これもダメ、って、――んもうっっ!!
と、正直、この一年半は、相当、悶々とした日々を過ごしております。(笑)
――が。
しかし、こういう、「外側」がどうにもならないしこうにもできないしの時こそ、自分の「内側」に立ち返るいい機会なのかも?と、最近、ふと思えたのである。
なのでやはりこれは、これまでの自分の傲慢さを「反省」っていうのとは、正直ちょっと違うのだ。
「当たり前」に思ってしまうと、そのことを大切にしなくなるし、それは長い目で見ると、相当「もったいない」ことだという、ただただ、その痛切な感慨についての話なのだ。
だから自分の中のそんな「傲慢さ」を、総点検してみようか、ここらへんをもう一度精査し直してみようか?――何故なら「もったいないから」。
と、思い立った自分の、そんな心境の変化を、今回はちょっと丁寧にメモ書きしてここに残してみた次第です。
(追記)
早い話が、「傲慢さ」って、ある種の「鈍感さ」でもあると思うのだ。
「なるべく鈍感な自分ではいたくない。」
結論はそういうことかもしれないです。
今回の記事は、こちらの記事の続きともいえるかもしれません。
「人生をどうしたいか」のその手前に、「自分がどういう人間でありたいか」のほうを、先に置いておきたい――と、最近感じてきている自分なのである。
「人生どうしたいか」だと、兎角外側に何かしらを求めてどうにかしていこうとする要素が必須になるけど、「自分がどういう人間に」の場合は、まず自分の内側からスタートするのでもかまわないわけである。
「人生をどうしたいか」からより、「自分をどういう人間にしたいか」からスタートを切って動いた方が、多分、地団駄を踏む機会も期間も、まだあるいは少なくてすむのではないか
というようなことを書いております。よろしければ!