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「損」と「得」の外側にあるもの

「損得勘定を基準に、それを中心に動く。」

そんなクセがついてしまうと、
いつか、自分を取り巻く現実のほうの世界も、
段々と「自分のちっさな頭の中に収まるサイズ」に、
折り畳まれて認識されていくような気が自分はする。

その「損得の計算」はあくまで
「自分の頭の中で考えが及ぶ範囲の世界」を基準にしているだけなのだが、
それにもかかわらず、うっかりそのことを忘れたまま、
あたかも世界全体を把握し尽くしてその上で判断しているかのような、
そんな勘違いや思い込みを自分はしがちだからである。
(または、自らそれ以上世界を観察したりそれについて考えることを面倒くさがって、勘違いを「わざとさせる」なんてことをしがちだからである。)

「計算問題」には、先に「模範解答」があるものだ。
(計算の結果、その正解は?……と来て、
「1か、いや100かもしれないし、√7かも?、もしかしてマイナスか?」
といったふうに、もし答えが定まっていなければ、
そもそも計算自体ができなくなってしまうだろうから。)
で、あるからして、
「損得」というのがある種の「計算問題」である以上、
答えはあらかじめ用意・設定されているものとなり、
したがって、その「損得計算問題」に取り掛かる以上、
やはりその「既に用意・設定されている正解」を
どうしたって目指すようになるであろう。
但し、その「正解」とは、
「自分達が自分達の頭の中で設定できる範囲枠内に限定されたもの」
となりがちだということだ。
つまり、「計算問題」の正解として、
「自分達でも予期せぬ予想外の答え」には、もう、
「計算」を始めた時点で、辿り着く可能性は、グンと低くなるのだろう。


うーむ、はたして。

現実とは、この世界とは、そんな
「ペーパーテスト」然としたものだっただろうか?

「テスト用紙」に収まるかのような、
そんな「薄っぺらなもの」にしてしまっていいのだろうか?

巧みな(と自分で思い込んでいる)「計算」などまだできなかった頃、
――例えば、子供の頃の、
自分の世界は、はたしてこんなだったっけ??
(よく思い出せないけど、思い起こそうとはしてみよう。)
すべての答え合わせを、後に必ず要求されるような、または、
すべての答え合わせが、後にできてしまうような、
そんな「狭量な」世界だっただろうか??

自分が今見ているこの世界を、現実を、
すべて「想定内」「予定調和」「筋書き通り」「予想通り」の、
「薄っぺらな紙きれ」みたいにしてしまったのは?
――はたして誰だろうか?


そして、そうなると、
短期的に「得」に見えることほど、
長期的な「損」の部分は、見えなくもなりがちであり。

何故なら、
「やった!これで得した!」あるいは「得できる!」と、
つまり正解に辿り着いたと、先に思ってしまったその時点で、
つい自分は、それ以上の思考を停止しがちだからである。


いや、それでもなお、自分はこれからも、
損得の計算はしてしまうのだろうと思う。
――が、しかし、
「損か得か」のその点「だけ」を見ていると、どうしたってその視野は、
自分の「思考できる範囲内」と狭まりがちなわけだから、
そうなると、
「本当に逃したもの」が見えにくくなるだろう。
仮に目に入ったところで、
「逃したもの」だと認識すらできなくなるかもしれない。

これらのことは、常に肝に銘じておきたいと思うのだ。