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「後悔すらさせてもらえない」が一番つらいと知る

「徒労に終わる」というのは、
ひたすら残念でしかないのは間違いないのであるが。

「徒労に終わることすらままならない」

つまり
「あれもできない、これも試せない、……」
そんな日々のほうが、
やっぱ、圧倒的にイヤかもなー、
と思った。

無駄なエネルギーは使わず、最悪の事態に備えて、蓄えて、
……みたいな「現・コロナ対応生活」は、
なんだかやっぱり「薄ぼんやり」としてしまう。
ペンキで色を塗ってみて
「わー、この色は失敗だったか~」もそれなりにはツライのだろうが、
それ以上に、
延々と色塗りに入れない日々のつらさもあるんだな、と。
――で、それはそのうち、
最終的に「塗る機会」そのものが、
永遠に失われていくというツラさに変わるパターンも多い。

「時間も労力もお金も、全部無駄になったかー!わー!」
みたいなことすらも、
今こうなってみると、
一つの「手応え」として、
「自分が求めていたもの」の一つであったんだったんだなー、と気づく。

――いや、まあ、その時は、
「やっぱやらないほうがよかったのか?」
「別のやり方を選ぶべきだったのか?」なんて悔恨も胸中で渦を巻き、
「それでも~」なんて拘泥のつまりべちょべちょの泥の嵐まで吹きすさび、
で、そんな自分を自分で見て、自分が自分に、
忸怩たる思いすら抱いてしまうところまで、
実際いったりもしたものだったが。

でも、まあ、その時に
「全部無駄になる可能性」自体は思い浮かべながらも、
「それでもやる」を選んだ時点で、
「それを選べた」という幸運が、そこに既にあった
んだなー、と思うのだ。

「選択肢が用意されている」こと
――それ自体の幸せというものが、
実はあったのだ
な~、……なんて、
コロナウイルス流行のおかげ(とは言いたくないんだけど、笑)で
気づけた、ということはある。

後悔しても、
「後悔できる選択肢もその時点では用意されていた」ということ自体が、
一つの幸運とも見れる
のか~。
と、
「選択肢」が極めて限られている現況の中で、
今頃。あらためて気づいてしまった
、という話でした。

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