見出し画像

俺の脳は間違うということ

物語にしてしまうらしい。
我々の脳の話である。

我々の脳はどうやら物語でものごとを捉えようとするらしい。(その辺りの詳細については千野帽子著『人はなぜ物語を求めるのか』や、山鳥重著『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』を読んで頂きたい)

脳が様々なことを物語にしてしまうというのだ。
なるほど、自分自身を振り返ってみてもそうである。

例えば、以下のようなニュースがあったとする。
「とある男性芸能人が障害だか強制わいせつだかの犯罪で逮捕されたらしい。そして、彼はアルコール依存症の可能性があったようだ。」
でもって本人が「仕事のストレスでつい飲み過ぎて…」みたいなことを言っていたとする。
それを聞いた俺は、「あ~、なるほど~、仕事のストレスが原因でアルコールに溺れ、アル中になりその結果、障害だか強制わいせつだかの過ちを犯したのか~」なんて理解するわけだ。
つまるところ、物語として理解してしまうわけだ。

でも、ちょっと待てと。
アルコール中毒と犯罪にたいした因果関係はない可能性もあるわけだ。
そりゃそうだ。アル中だからといってアル中の人間全てが法に触れるような過ちを犯すわけではないのだ。
更に、仕事のストレスが原因でアル中になるわけでもないだろうとも思われる。
アル中のような依存症は「何となく好んで摂取しているうちにそうなった」という長い間の生活習慣が原因であることが実は多いらしいではないか。
「仕事のストレス」なんてのは依存症においては後付けの理由であることが多いと。

そう考えると、仕事のストレス、アルコール依存症、障害だか強制わいせつだかの犯罪、これら3つのキーワードは何の因果関係もない可能性があるわけだ。
ところが、俺は上のようなニュースを聞いたときに、「あ~、なるほど~、仕事のストレスが原因でアルコールに溺れ、アル中になりその結果、障害だか強制わいせつだかの過ちを犯したのか~」というような物語として理解しまうことがある。

このように我々人間は世の中の様々なことを物語で捉えようとする習性があるらしい。
どうやら脳の機能として、そういった思考回路を好むのではなかろうかという話だ。
バラバラであったものが一つに繋がり滑らかになるイメージだ。様々なものが繋がり滑らかになると合点がいくし、スッキリするし、腑に落ちて落ち着くしといったところだ。
正に短絡思考である。
我々の脳自身に、消費するカロリーを節約する為に思考を短絡化する機能があるのではなかろうか、つまり消費するカロリーを節約する為に物語として捉えようとする機能があるのではなかろうかと俺なんぞは思ってしまう。

もっと言うと、「わかった!」「理解した!」「認識した!」という感情が発生すると、それこそ依存症のように脳が報酬(ご褒美?)を与えてくれる可能性すらあるのだ。
物語として捉えて理解したことで(理解したつもりになることで)脳内物質のドーパミンが出てしまうと。(この辺り間違いがあればご指摘頂きたい)

おいおい、参ったではないか。
今、ここにこれを書いている俺も「わかったつもり」になっていて脳内がドーパミンじゃぶじゃぶの可能性があるではないか。
俺の脳内で様々なことが繋って滑らかになって、理解したと思い込んで「嬉しい!」みたいになっている可能性があるのだ!
参った。
だが、ここで深みにはまると先へ進まないので、俺の理解云々の話は今回は置いておく。

どうやら、我々人間は世の中の様々なことを物語として捉える傾向があるらしいと。

そして、更に参ったことに、我々は信じたいものを信じてしまう傾向があるらしい。
しかも、信じたいものをより信じる為に、世の中にある沢山の情報の中から自分が好む情報を選択しているというのだ。

我々のこのような傾向は、歴史認識や政治の話題なんかを例にすると分かり易いと思う。(この辺りの具体的な例については物江潤著『ネトウトとパヨク』を読んで頂きたい)

例えば、太平洋戦争について「あれは侵略戦争だ」という立場の人(そのような内容の話を好む人)と、「あれは解放戦争だ」という立場の人(そのような内容の話を好む人)がいたとする。
そうすると、その各々はその立場をより補完する為の情報を沢山ある情報の中から好んで選ぶ傾向があるというのだ。己の理屈を補完する為に後付けの理由を探すということだ。
好きな立場や内容をより補強する情報を探し求めていき、都合の悪い情報はスルーしたり強引な解釈を与えたりしてしまうらしい。

あ~これはGoogleとかも好みの記事を優先して持ってくるから余計にそうなるわと俺は思う。
似たような話で、AIやらビックデータやらの恩恵を受けてる最近の俺なんぞ「あなたにオススメ」みたいな情報をものすごく便利に使ってしまうもの。
そりゃ、好みの情報を集めてしまうわ。
便利な分、弊害も認識しておかなくてはならんと俺は思ったよ。
そもそも自分にとって都合の良い話以外は正直あまり聞きたくないという気持ちは俺にもあるわけで。

で、どうやら我々人間ってのは信じたいものを信じる為に都合良く情報を取捨選択することがあるのだということを認識したところで、改めて、いやいやホントに参ったなと思う。

ホント参ったよ。
我々人間はものごとを物語として捉える傾向があると。そして、信じたいものをより信じる為に情報を都合良く取捨選択してしまうのだと。

つまりこれは脳は間違えることがあるということだ。
我々の脳は間違えるのだ。そう、

俺の脳は間違うのだ。

いやいや、参った。けれども、このことを自分自身への戒めとしてここに記しておく。

柔軟な思考や発想が出来なくなったり、人の話を聞かない変な頑固者になりたくない。
その為にまずは俺の脳は間違うのだという前提が必要なのだ。

そして、改めて科学的方法ってのは凄いなと思う。
物語ではなく、仮説を立てて、その仮説が正しいかどうか、成り立つかどうかを、ひたすらに観察・観測し、その結果を様々な角度から分析し、また、何度も何度も実験を重ね、先入観や偏見を一切持たないようにし、人為的なものは徹底的に排除し、失敗は失敗と認め、多くの時間と労力を費やして検証していくのである。

だからこそ我々はそういったひたすらに地味な作業を地道にしている学者等の方々に敬意を表すのだ。
学術論文が世の中で信頼されているのも頷ける話である。お前は頷く立場ではないだろというツッコミはあると思うが。

一方で世の中には疑似科学なんてものもあるので、我々は十分に気をつけなくてはならないのも悩ましいことではある。
一歩間違えれば、科学が妙な宗教になってしまうなんてこともわりとよくある話だ。

それにしても、今回「俺の脳は間違うのだ。」なんて、さも偉そうに立派な結論めいたことを書いたわけだが、これも俺の脳の短絡思考によるものなのだろうな~なんて思うわけで…
きっと俺の脳内はわかったつもりの為にドーパミンじゃぶじゃぶなんだよきっと…と思ってしまうのだ…

そう考えると何だがやはり参ったなと思うのだ。
参りっぱなしの俺がここにいる。あ~参った。

この記事が参加している募集

#とは

57,831件

#推薦図書

42,375件

ええっ! ホント〜ですか。 非常〜に嬉しいです。