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心(こころ)とか、メンタライジングとか、進化心理学とか、その辺りの話

※それなりに長いです。8,000文字程度あります

「心(こころ)」とは何であろうか。

何とも掴み所がないと言うか、俺のような凡人にとっては、どこから掴んで捉えればいいのか悩ましいテーマである。

何故、俺が「心(こころ)」なんてものについて考えているのかと言えば、梟さんが個人で開催されているコンテスト「表現とこころ賞」に文章を応募しようと思ったからである。↓

応募しようと思ったのは梟さんの下にある記事を読んだからだ。
その梟さんの記事を読んで俺はかなり心を打たれたのだ。でも、今一つ気の利いた感想が述べれなかった。俺の言葉は何だか安っぽいような気がして。
なので、せめてご本人が催すイベントを少しでも盛り上げたいという思いがあり応募することにしたのだ。
こんなことを書くなんて、何だか恩着せがましいような気もするのだけれども。

↑この記事は梟さんご自身の大学入学から現在までの「自分史」の一部を恩師との交流を軸にして語られたものなのだが、俺はこれに本当に心を打たれたのだ。あまりにも赤裸々に己の内面が語られていたので。

でだ。その梟さんがコンテストを開催すると。
梟さんが「私は今“巻き込む”という、似合わないことをやろうと調子こいています」という遠慮がちなことを言いながらも、noteを活気づかせる楽しいイベントを開催してくれたわけだ。乗らない理由はない。
よっしゃ、それならオイチャンも参加して盛り上げたるぜ!なんて思った次第なのである。「踊らな損損」というような気持ちでもって。

で、以上のような経緯で参加を決めたわけなのだが、ぶっちゃけ、いきなり躓いたのだ。

え?心って何よ?
確かにオイチャンはあなたの文章に心を打たれたわけなのだが、「ところでその心って何?」とかカウンターのように聞かれてもだ、そりゃオイチャンかな~り悩むわ。
いやいや、梟さん。
「“表現”や“こころ”と聞いて あなたが表現するものは?」とか聞かれてもだ、いやまいった、ホント難しいこと聞いてくるな~と思ったのだ。
オイチャン困ったのだ。

ぶっちゃけ、参加は決めたものの、何を書いたら良いのか悩んだ。しかも、悩んでいながらもついエロいことやアホなことなどを考えてしまうし。ホントつくづくダメな中年である。

なので、最近俺が聞きかじったことや読んだ本の情報なんかを整理して記事にすることにした(因みに、直近で読んだ本は、最近俺の中でブームな進化心理学の本 : ウィリアム・フォン・ヒッペル著、濱野大道[訳]『われわれはなぜ嘘つきで自信過剰でお人好しなのか』というものだ)。

とりあえず、自分なりに聞きかじったものを更に噛み砕いて吐き出すことにする。(何だか表現が汚ならしいな)。
自分なりに咀嚼したものをプップッとアウトプットしようというわけだ(度々表現が汚ならしいし、しょ~もないダジャレで申し訳ない)。
ま、その辺りが今回の記事を書く経緯だ。
以後グダグタと書き撲るが、読んで頂ける方で、俺の文章に間違いや誤解があることを発見された場合は是非とも遠慮なくご指摘頂きたい。

では改めて、「心(こころ)」とは何であろうか。

巷では時おり「あの人は心がない」なんて言い方をすることがある。
このときの「心がない」とは、優しさや思いやりがないとか、感情の起伏が少ないとかの意味で使うことが多いだろう。
だが実際は「心がない」と言いつつも、「優しさや思いやりが少ないと判断される冷酷な心を持った人」であったり、「感情の起伏が他の人よりも相対的に少ないと判断される冷静沈着な心を持った人」であったりするわけで、つまり、このときの「心がない」とは、所謂ものの例えなだけである。
早い話が「あの人は心がない」と言っても、実際には心はあるわけである。

じゃあ、またまた改めて心って何よという話になるのだが、とりあえず、心=意識と捉えたらばどうだろうか。
オイチャンの提案なんだけど。
そう捉えた場合、心とは、人間の生命現象であり、ニューロンやシナプスの化学反応の過程で生じたものだということになるだろうと思う。
ざっくり乱暴に言うと、心=意識=脳の内的現象だということになる。

でも、ここで問題が発生する。
心が意識、脳の内的現象であるならば、「故人の精神」や「仏の御心」「神のご意志」「心があるようなロボット」といった抽象的、概念的な意味で使うときの「心」はどう説明するのだと。
死んだ人間の脳って活動してないじゃん?それとさ、仏とか神とかって脳あるの?ロボットにある心のようなものって意識のこと?みたいなツッコミを入れたくなる。
ま~でも、それらも含めて「脳の内的現象」であると言って良いのではないかと俺は思うようになってきている。
心とは、「脳が紡ぎ出したものである」みたいなことを言う学者とかもちらほらと見聞きする。
なるほど、と俺も思う。心とは脳が紡ぎしたものだと言っていいだろう。
その辺りを俺が知り得た情報を俺なり噛み砕いて整理し説明しようと思う。

まず、結論っぽいことを先に書いておく。

我々が「心(こころ)」と表現しているものは、我々の認知・共感能力と、その能力の使用の傾向によって形作られているものであろうということ。

以下、その辺りをウダウダと書かせて頂く。

太古の昔、我々ホモサピエンスの祖先である二足歩行するチンパンジーのような生き物は、他の肉食獣等と生存競争する上で、それらとどのように戦っていたのか。その手段の一つが石を投げつけるなどの投擲であったらしい。
で、投擲という手段が種の保存上、とても有効であった為に、投擲するのにより優れた身体構造のものが、自然選択(自然淘汰)され、より進化していったわけだ。
でもって、石を投げつけるにあたり、集団で協力して行った方がより効果は高い。ということは、集団で協力することに長けている優れた脳の機能を持つものが、自然選択(自然淘汰)され、より進化していったわけだ。
で、より正確には「優れた脳の機能を持つもの」というよりは、「もともとあった脳の機能を環境に合わせて上手いこと使っていたもの」が自然選択されてきたということらしい。

このようにして我々ホモサピエンスも他の生物と同じように、進化の過程で自然選択により様々な機能がデザインされてきたわけである。
全ての生物は進化の過程で形成されてきた。
我々ホモサピエンスも例外ではなく、その身体的な構造や特徴は勿論、脳の機能やその機能の使い方も含めて全てが進化によりデザインされてきたのである。

では、我々の脳ってのはどんな機能があって、それがどんな風にデザインされてきたのか(形成されてきたのか)。
それらについて語っているのが認知化学だの進化心理学なのだ(おそらくは)。

ではでは、我々の脳にはどんな機能があるのか。我々の脳には色々な機能があるが、その中に「認知する」「共感する」という機能がある。
それらについて簡単かつ乱暴に説明する。

我々が認知したり共感したりするのは「ミラー系」と「メンタライジング系」という脳のネットワーク機能があるからなのだ。

「ミラー系」ってやつは見たものをそのまま認知し、真似をしたりするわけだ。例えば、人が転んで「痛い!」ってなっている姿を見て、自分も「あ~それ、痛い!」となったりするやつだ。あとは梅干しを見てたら何だか口の中が酸っぱくなるみたいな。
因みにこのネットワーク機能は人間以外の生物にもあるらしい。

一方の「メンタライジング系」ってやつはより複雑で、高度な「協力」に必要なものなのだ。
例えば、猛獣に対して数人で協力して石を投げつけて追い払う場合や、投擲により獲物を狩る場合、「よっしゃ、アイツらがあの位置にいるなら、きっと右側から攻めるだろうから、俺らは左側から攻めよう」とか「アイツらは前方をふさぐようにして投石するはず。ならば俺らは後方に半円を描くように投石だ」みたいな感じで、「推測する」「考える」「信じる」「望む」といったようなことを行う。その際に必要な機能がメンタライジングなのである。
他者の心的状態を見出したり推論したりすることを運用する能力のことだ。

屈強なネアンデルタール人が絶滅して、彼らと比べ相対的に身体が弱かった我々ホモサピエンスが今、地球の頂点に立っているのは、高度なメンタライジング系の機能があったからだと言われている。
絶滅したネアンデルタール人はメンタライジングが我々より劣っていたのだ。ネアンデルタール人より我々ホモサピエンスの方が協力することに長けていたのである。数は力ってことだろう。
今もいるチンパンジーはネアンデルタール人より更にメンタライジングが劣っているので、チンパンジーは協力することが我々より極めて苦手だ。
(因みに、ミラー系だのメンタライジング系だのの話はもっと複雑だし、それぞれ機能は異なるが相互補完的に働くらしい)

で、このようなミラー系やらメンタライジング系やらの機能を「上手に」使うことができたものが、自然選択されてきたということになるのだ。
つまり、進化の過程で認知・共感能力を発達させてきたというよりは(勿論、それもあるだろうが)、もともと備わっていた認知・共感能力を、自分たちが置かれた環境に上手いこと使用出来たものが自然選択(自然淘汰)されてきたわけだ。
メンタライジングってやつを、我々ホモサピエンスにとっての種の保存上、適した使い方をしてきたやつが自然選択(自然淘汰)されたのだと。

別の生き物で説明すると、例えば、泳ぐ能力が同じ魚がいたとして、上流を好むやつは火山の爆発の影響で全滅したけど、河口付近を好むやつは生き残った、みたいな話だ。
同じ能力があっても、嗜好というか、能力を使用する傾向というか、能力の運用方法というか、そういったものが適者生存に有利に働いたものが生き残ってきたわけだ。

我々サピエンスも、ミラー系・メンタライジング系の能力は同じでも、みんなと上手いことやっていけなかったやつは死んで(昔のサピエンスにとっては共同体から離れる=死なので)、みんなと上手いことやってたやつは生き残ったみたいな話でもある。
メンタライジング機能について、そのときの社会(狩猟採集社会)に適した運用が出来たものが生き残ったのだ。

メンタライジングを種の保存上、上手いこと適した使い方をしてきたやつが自然選択(自然淘汰)されたということは、我々ホモサピエンスには、認知・共感能力について、ある程度の傾向が既に備わっているということなのだ。
因みに、その傾向の一つ一つをここで追うことはやめておく。
とりあえずここでは、我々サピエンスの認知・共感能力については何らかの傾向があり、その傾向は進化の過程である程度デザインされているということに留めておく。

でもって、そのミラー系だのメンタライジング系だのっていう脳のネットワーク機能が我々の「心(こころ)」ってのを作っているんじゃない?という話になるので、以下その辺りを拙く乱暴に説明したい。(因みに、その作られた心ってやつはある程度の傾向があるのだと言えるわけだ。何故ならば、我々の認知・共感能力にはある程度の傾向があるのだから)

では、「心(こころ)」ってのはどのように作られているのか。以下の拙い説明で何となく掴んで頂けると有難い。

我々は、相手(認知・共感する対象)の見た目や表情、動き、状況なんかを見て、または、その相手のバックグラウンドなんかを知ったり想像したりして、つまりは様々な情報を仕入れて、「相手はこう思っているのではなかろうか。きっとこのような心境なのではないだろうか。」と考えるわけだ。
持ち得た様々な情報をもとに、それらを組み合わせてストーリーを構築して相手なり対象なりを理解するのである。

例えば、ある人が居たとして、その人について「疲れたような表情」「最近この人は離婚した」という情報を持ち得た場合、多くの人は、「あ~、この人は離婚したばかりだから色々と精神的に参っているのだろうな~憔悴してるのだろうな~大変だな~」とかストーリーにして認知・共感しようとするのだ。俺も含めたわりと多くの人がそう捉えようとするだろうと思う。
でも、実際は前日に合コンで盛り上がり過ぎて単に寝不足なだけかも知れない。
にもかかわらず、我々はあらゆるものをそんな風に理解していく。仕入れた情報でストーリーを構築していく。

で、我々はこれを対人間にだけでなく、ものや他の生物に対してもやる。例を挙げる。
「長年愛用したこの道具、俺がこの前ここを怪我したから、ほぼ同じタイミングでここが壊れたのだろうな。相棒として付き合ってくれたのかな」(たまたまのタイミングで壊れただけなのにそう思いたくなるし、「つくも神」なんかはその類いであり、その延長上のもの)
「海ガメが産卵中に泣いているよ。ツラいのかな。それとも、これから生まれてくる子供達の前に立ちはだかる自然の厳しさを思って泣いているのかな。」(実際は目から海水を排出しているだけだったりする)
みたいな感じで、あらゆるものについて、このように認知・共感していこうとするのだ。
こんな風にして我々は心というものを紡ぎ出していくのだ。

これらのような捉え方を別に悪いものだと言うつもりは毛頭なく、単に我々はそうしてしまう生き物なのだということである。
だから、我々は人間だけでなく、他の生き物にも「心(こころ)」ってものがあると思うのであろうし、生き物でない道具のようなものに対しても心ってやつを見てしまうのである。
この辺りが上で述べた「故人の精神」だの「仏の御心」だの「神のご意志」だの「心があるようなロボット」だのに繋がってくる。

我々はロボットだの2次元のキャラクターだの、他の生き物だの、山だの大地だの道具だの食い物だのに心ってやつを見出だしてしまうのだ。
で、その正体というか仕組みというのは 、我々の認知・共感能力によるものなのだろうと思われる。
まさに脳が紡ぎ出したものだと言える。

実際の相手はどう感じているかは分からないし、対象によっては感じるも何もなかったりするわけだ。
それでも、我々は優れたメンタライジング機能により、自分が認知・共感した対象に対して、「心(こころ)」と言われるようなものを作り出してしまうのである。

で、当然それを自分にもする。
「自分のことって分かっているようで分からないことが多い。」なんてことをよく言ったり聞いたりするのだが、それはある意味当然のような気がしてならない。
我々は、自分に対してもメンタライジング機能を発揮して、「自分の心(こころ)はどうなっているだろうか。」とか、「何故、今の自分の心は○○のような状態なのだろうか。」みたいな感じで捉えようとしてしまうのだろう。実際、俺がそうである。
でも、考えてみれば自分が持っている「自分の情報」ってのは量が莫大過ぎるのだ。
なので、メンタライジング機能が自分のことについて持っている情報でストーリーを組み立てようとすると、収拾がつかなくなってわけが分からなくなるのではなかろうかと思う。

で、そういう「自分とは何か」みたいなことを突き詰めることって難易度がどえらい高過ぎるんじゃね?と俺は思うのだ。
我々の脳が紡ぎ出す様々なものを「心(こころ)」として一括りで捉えようとすることは、かな~り難易度が高いんじゃなかろうかと思うのだ。
(難易度が高いからこそ、哲学だの心理学だのといった学問があるのだろうとも思うし、また、「心(こころ)」ってものが何だか掴み所がない為に、多くの人が絵や音楽や詩や文章等で表現しようと試みるのだろうとも思う)

どうして難易度が高いのかを、もう少し詳しく説明したいと思う。(かなり無理くりになりそうだし、上手く説明出来そうにないけれど)

心だの脳だのを分かり易く表現しようとすると、どうしても一括りで捉えてしまいたくなるのだが、実際の我々の脳は様々なモジュールの複合体であるといえるのだ。

例えば、ディズニー映画「インサイド・ヘッド」を見た人ならば、わりとイメージし易いと思うのだが、我々の脳ってのは、きっと様々な機能が独立して存在しているようなイメージなのだ(因みに「インサイド・ヘッド」では、ライリーという少女の頭の中(心の中)に擬人化された5つの感情のキャラクター : ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミが同居していて、その5人がドタバタを繰り広げるのだ)。

また、例えば「日本」という国があることは事実だが、では日本って何?と聞かれたときに我々はどの要素から掴んで語れば良いのか悩むと思うのだ。
あまりにも日本というものを構成する要素が多過ぎて、さて、どこから語ろうかとならないだろうか。
そして、心だの脳だのも日本と同じようなものではなかろうかと思う。
つまるところ、我々の脳、そして脳が紡ぎ出す心とは、構成する要素が多過ぎるし、また、決して一枚岩のようなものではないわけだ。
それを「心(こころ)」という一括りで捉えようとすると、色々と難しくなくなるのは仕方なかろうかと俺は思ったりするのだ。

俺は己の言動に矛盾がよく生じる。
「理屈では分かっていても、感情がついていかない」だとか、「好きなのに素直に好きと言わず、屈折した伝え方をする」だとか、「共感はするけど、一方で何か筋は通ってないよなとも思う」だとか、「ステキなオジサマになりたいのに、エロいことやアホなことを考えてしまう」だとか、そういった己の精神の中に矛盾するものが沢山あるのだ。
このような整合性のとれていない俺の頭の中って一体何なのかと思ったりもするのだが、「そもそも心だの脳だのってのは一枚岩ではないよな」と考えれば、俺の場合は何だか気持ちが楽になるのだ。
進化の過程でデザインされた脳の機能の傾向というものが色々と搭載されているのだから、俺ってやつは色々と自己矛盾が生じるのだろうな~と思っている(だからといって生物なんだからしょ~がね~じゃんと開き直り過ぎてもダメだとは思うけど)。

「人間って様々な面がある。人間って多面的だ。」なんてことを俺はよく思うのだが、それって脳の別々の部分が働いているからじゃね?と思うのだ。
実際に、分析的な思考をしているときに使っている脳の部分と、他人の思いにリンクして共感しているときに使っている脳の部分では、どうやら使用するネットワークが異なるらしい。なので、それらを同時に処理することは難しいらしい。
分析と共感は同時に出来ないのだ。それは、共感しているときはアホになっていると言い換えることも出来るということなのだ。
なるほど、そうであるならば、分析的な思考をしているときの自分と、共感しているときの自分とでは、考えていることが違って当然である。
自己矛盾して当然だと言える。

ということはよ?自分のことなど分からなくて当然であると思ってしまうのだ、俺は。
自分の「心」というものを一つとして捉えるから、様々な苦悩が生まれたりするのではなかろうかと思ってしまう。なので、色々な自分がいて当然じゃん!みたいなノリがあっても良いように思うのだ。
そして、自分のことなど分からないままでも良かろうという気持ちにすらなるのだ。
何故ならば、俺の脳ってのは決して一枚岩ではないので。俺の脳には進化の過程で出来ちゃった様々な傾向があると思われるので(重ね重ね、だからといって開き直り過ぎてはいけないとも思っている)。
あるいは、「色々な面も含めて全てが俺。」「色々な俺がいるけど、それらも全て俺。」みたいな、ゆる~ いノリでもって「心(こころ)」ってものを捉えても良いような気がするのだ。
俺が「心(こころ)」について思うことは、そういったことなのである。

最後に、心という、脳が紡ぎ出した掴み所がないモヤモヤフワフワしたものについて、俺はグダグタと長いこと書いてきたわけだが、もう少しシンプルに分かり易くまとめることが出来なかったのかという思いがある。

では、どうして出来なかったのか。
それは、そもそも、まとめるのが苦手だからである。
それと、それは俺の「心(こころ)」が一枚岩ではないからに他ならない。
しかも、めんどくさい人間で、ややこしい人間だから余計にである。

あ~、もっとさっぱりとした人間になりたいものだ。

あと、さっぱりと言えば、せっかく本を読んでもその後にエロいことやアホなことを考えると、その本の内容をさっぱり忘れてしまう俺の脳をどうにかしたい。

※2019年 「#表現とこころ賞」コンテスト へ投稿

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