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新しい芸術ジャンル、〈映像演劇〉の世界に触れて

皆さんは〈映像演劇〉という物に触れたことがあるだろうか。

2016年に初めて発表され、今3作目となる「風景、世界、アクシデント、全てこの部屋の外側の出来事」が豊橋市で公演/展示されている。

これまでの公演/展示は九州と北海道であり、本州初上陸が愛知県豊橋市。
そのため、まだ知らないという方が多いのでは無いかと思う。

僕もひょんなことから〈映像演劇〉の映像を担う山田晋平氏と交流する機会があり、話を聞く機会があるまで知らなかった。

〈映像演劇〉とは、という総論に関しては、映像演劇宣言を読んでいただくのが良いのかもしれない。

一言で示す部分を引用するならば

〈映像演劇〉とは、映像のプロジェクションを用いた作品の展示を、演劇の上演として行う試みのことだ。

ということになる。
ただ、映像演劇宣言ではそこからつらつらと綴られていくように、簡単に一言で表わせられるものではない。
単に演劇作品を撮影したものを投影しているわけではない、ということが、実際に公演/展示を観てわかった。

実際に〈映像演劇〉の作品を観て感じた、この奇妙さは観た人同士でしか分かり合えない気がする。

そもそも演劇作品を観る時、僕達はステージ上にフィクションが発生していることを承知している。
なんならそのフィクションを観客として観に行っていると言っても差し支えない。

〈映像演劇〉もそこにフィクションは生じているが、フィクションを生み出しているキャストの存在そのものも、映像という1種のフィクションだ。
1日中会場で観ていても、寸分違わぬ演技を繰り返すキャスト。
しかし、フィクションでありながらその存在には妙な生々しさがあった。

映像演劇宣言を読むと、キャストは基本的に等身大で投影され(一部例外はある)、背景や奥行は無く投影されるとされている。
しかもこれが映像作品なのであれば、シーン別にカット割りがされ映像が切り替わったり、何らかの映像効果が加えられたりするものだが、そういった手法もあえて取られていない。
ただ、そこにいる人を映しているだけ、という映像そのものがより奇妙な感覚を与えるんだと思う。

普段自分が目にしているような距離感、温度感でそこに人がいるように脳は感じているのに、そこにいるのは映像で、しかも演劇というフィクションを演じている。
…ということも脳が認識するから、頭が混乱するような奇妙な感覚を覚えたんじゃないかと、自分の中では推察した。


文章で書くのは本当に難しいジャンルだなあ…

さて、〈映像演劇〉全体の話から、今回の3作目の感想も忘れないうちに書いておこう。

まだ開催期間中だから、ネタバレ注意な方は観てから読んでほしい。


1.カーテンの向こうで起きていること

映像がカーテンに投影されている。

風に揺れるカーテンに透けて映る人は、カーテンの後側に実在しているように思わせる。

2枚のカーテンを用いているのは敢えてだろうな。
カーテンとカーテンの切れ目が生じる部分には人が映らず、フィクションであることを印象づけた。
なのに、カーテンに映る女性の言葉を聴いていると、まさにそこにいるような奇妙な感覚を覚えた。

女性はカーテンの向こう側で、女性側から見たカーテンの向こう側の話をしている。

それはこちら(観客)側のことなのか、それともさらに先の向こう側のことなのか…
考えれば考えるほど、奇妙な世界に立たされる。

妻の感想︰めっちゃベランダ推すやん

2.高い穴のそばで

丸いテーブルがただ1つ。
そこには「穴」と投影され上から光が射すのみ。
(テーブルの影が穴のようにポッカリと闇を落としていた)

男と女が話している。
穴を覗き込んでいるのか、いないのか。

男が女に問いかけて、女がそれに返しているようにも聴こえるが、じゃあ僕達(観客)は今どこに立っている…?

最初は下から聴こえてくる気がして、しゃがんでテーブルの下に耳を傾けていた。
しかし気づけば声が上から聴こえて、見上げると強い光が目に刺さる。

知らないうちに、自分は穴の中にいた。

フィクションをただ楽しむ観客のつもりだったのに、そのフィクションの世界の一部になったような感覚だった。

妻の感想︰高い穴?深い穴じゃなくて?

3.仕切り壁が仕切りを作っている

投影された壁に1人の男が立っている。
その横からは、劇場の普段通りの世界が広がっていた。
僕達が入場するまでいた世界と、自分たちが立っている会場、その間に男が立っている。

男の話す声の裏で、劇場の声が集音されて流れている。
僕が行った時はバレエの発表会?があったのか、多くの人で賑わっていて、「お疲れ様ー!」等の声を拾っていた。

少し五月蝿すぎるくらいの劇場の声をバックに、男は話しつづける。

「仕切り壁が仕切りを作っている」というタイトル、当たり前のことを言っているようで、この作品を前にすると本当にそうだなあと。

男の横に開いた隙間から、劇場の人と目が合うが、向こうからすると僕達は別の世界に映る演者のように見えていたんだろうな。

またもや自分がどこに立っているのか、男はどの世界にいるのか、考えさせられた。

妻の感想︰なんでこんな衣装なんだろう…

4.ダイアローグの革命

他の3つの公演/展示とは異なり、ヘッドホンをつけ、一人がけのソファに座ってキャストと向き合う。

キャストは同じことを繰り返し話しているが、ヘッドホンをつけている人にしか聴こえないことを考えると、この作品は対象が限定されている。

またこの作品が他と決定的に違うのは、僕達の場所を指定していることじゃないかな、と思う。
他の3つはどこからでも好きなように観て好きなように感じる自由さがあったが、「ダイアローグの革命」に関しては場所を指定された。

男と女が相容れない意見を交わしている。
男と女のお互いの意見は平行線だが、議論は活発だ。
しかし男も女もお互いのことは見ようとせず、こちらをずっと観ている。
男と女の世界にはいないはずのこちらをずっと見ながらダイアローグ(対話)をしている。

そして男と女がいる世界とこちらは違う世界であるはずなのに、キャストと目が合う。
本来であれば、明らかに僕に対して話しかけているようなのに、当然ながらこちらは何も話していない。
なのに会話は続く…男も女も、実際誰と話してるんだ?
自然とどちらかの意見に偏った気持ちになると、目が合うのは意見が合わない方だった。
自分はあの時観客だったのか、それとも女(あるいは男)だったのか?

妻の感想︰めちゃ否定し合うじゃん。互いの意見尊重するのも大事だよ
足下がこっちの部屋と本当に繋がった位置にあって、どうやって撮影したんだろう
男のセリフと動きのリズムのちぐはぐさが気持ち悪い


全体を通して

作品すべてを通して、「境界」というキーワードが頭に浮かんだ。

カーテンという境界や仕切り壁といった物理的な境界もあれば、自分のいる世界とキャスト達のいる世界の境界線も曖昧にボヤケてしまうような感覚。

「すべてこの部屋の外側の出来事」というタイトルを読み返し、少し安心するものの
じゃあ僕達がいたあの部屋はどの世界だったのだろう。

もしかしたら、あの部屋から見えた外の劇場、自分たちが来たと思っていた外の世界こそがフィクションだったのかもしれない。

そんな奇妙な感覚を覚える演劇体験でした。
あの奇妙さは、〈映像演劇〉でしか味わえない、なんとも言い難いものだと思います。

そして妻の感性も自分になくて面白かった。
色んな人の感想を聞いてみたいです。



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