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愛されたいと願う裏には、寂しさがあるんじゃないか。

愛するよりも、愛されることを願う。

そんな一節をふと思い出した。

どこで読んだのか、小説なのか、何かの記事なのか、それさえも思い出せないが、この一節だけが脳裏にこびりついて剥がれない。

この一節を読んだ時、それがいつの事だったのかも忘れてしまったけれど、覚えているのは「俺は、愛したい。」と思った事だ。それ若さがそう思わせたのかも分からないが、今は少し違う。

「自分を愛してくれる人と共に過ごしたい。」

そう思うようになった。

人をちゃんと愛した事があるのかと聞かれると、今までの恋愛が正解だったのかは分からない。いずれも終わりを迎えてしまっているから。
でも、それぞれの時、それぞれの人を愛していると思っていたのも事実だ。「愛してる」なんて誰にも言ったことは無いから、どこかむず痒いけど。

俺は愛したいと思ってから何年経ったのか。歳をとったことには変わらない。そんな今の僕は、誰かに愛されたいと望んでいる。

20代前半の時のような無鉄砲な恋愛が出来なくなっているって感じる。

それが良いことなのかは分からない。

臆病になっているだけかもしれない。
心の安定を求めているのかもしれない。

自分の感情なのに、分からない時があるのは、嫌いではない。

寂しさを紛らわす為に、誰かと付き合う人がいる。
それは良くないことだ、という風潮があるけれど、本当にそうなのだろうか?

人は誰しも悲しみを持っている。

その穴埋めのために恋愛するのは、間違っているのだろうか。趣味があったり、仕事が好きだったり、仲間といたり。そういう事を分散させて、寂しさを埋めることは出来るかもしれない。それは、寂しさを恋愛だけで埋めるよりも良い事だと思う。

でも、分散させてみたところで、本当に寂しさの全ては埋まるのだろうか。

誰かと過ごしたいという寂しさを、趣味で埋めることは出来るのだろうか。

それはやっぱり、一緒に過ごしたいと思う人といない限りは埋まらないのではないだろうか。(ここでは友達とかではなく恋人的な意味で。)

恋人を作って、その寂しさを埋めることは、それもひとつの正解なのでは。

「恋の痛みは、新しい恋でしか埋まらない。」なんて言うように、誰かといたい寂しさは、その特定の誰かといる事でしか埋めることは出来ないのではないか。

いくら愛しても、愛されなければ、その寂しさは埋めることは出来ないのではないか。

愛されたいと願う裏には、寂しさがあるんじゃないかと思う。

そんな愛されたいと願う僕は今、寂しく思っているのだろう。

こーた

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