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風と循環の話

5月9日 くもりのち雨

本日のBGM Lali Puna


本日は風の強い日でした。
庚申窯は地形的に風の通り道なので
ことさら風が強いのですが、
私は小さい頃大好きだったけど
大きくなって嫌いになったものがいくつかあって
その一つが「風」です。

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今日の午前中は生暖かく湿った風が吹いて
午後から雨になったのですが、
子供の頃 そんな風が吹く日は無性に心躍り
夏の台風なんかは狂喜して表を駆け回ったものですが、

現在ではそんな風も疎ましく、
それはなぜかと考えてみると
風というのは創作と相性が悪いのではないか
と思うに至りました。
ひいては創作物とも相性が悪いのではないかしらん。


初めて風に対して敵意を持ったのは
スプレー缶で絵を描いていた時に
風でスプレーが流されて
思うところに色が乗らない、
色がついてはいけないところに
インクが飛んでしまったり
顔にかかったり というので
風うっとおしいわ〜 と思ったのが最初です。


焼き物を作りだしてからも、風が強いと
作った器が乾きすぎてダメになるとか、
スプレーガンで釉薬をかけている時に
釉薬が流されて作業が進まないとか、
素焼きの器が飛ばされて割れてしまうとか、
粘土に雨が入らないようにかぶせてある
トタンが飛んでいってしまうなど
思い起こせば風害が多いこと。

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↑トタンの下に粘土があります。鉄骨が重しですね。


中でもトタンには大変苦労させられまして、
夜中に寝ていると風と雨が強くなって
外からトタンが飛んでいく
ガランガランバタンジャリジャリジャリギイイ
みたいな音が聞こえると
「ぁぁぁ〜〜」などと呻きながら目を覚まし、
雨に打たれながらトタンを回収して
再度飛ばないよう重しを見つけて回るというのを
何度か繰り返した私が風を嫌いになってしまうのも
無理からぬこと。


風が嫌いというので思い出したのが高校の時の
同級生で、彼は髪のセットが崩れるからと
風が吹くたびに悪態をついていました。

その頃まだ風が大好きだった私は
風が嫌いだなんてあるの!?と驚き、
ファイナルファンタジーの主人公のような
彼の髪型が風に吹かれたところで、
私を含めた周囲からの印象はさほど変わらない
という事実もあって
その時の私には風を嫌う気持ちというものが
理解できなかったのですが、
私も彼に遅れること10数年、
ようやっとその境地にたどり着いたようです。いえい

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落ち葉とかゴミを飛ばしたり、端に寄せてくれるのは風のいいところですね。


そんな風は物語などで出てくる時、
自由の象徴だったり、革新を表すものとして登場します。

物語の多くがそれらを求める内容でもあるので
自由や革新は善なるものとして捉えられがちですが、
革新というのは常に破壊がともない、
自由もまた、それを迷惑がる人だっています。


それらから風について考えると
風の本質とは「循環」なのではないでしょうか。

それはものを遠くへ飛ばすという意味もそうですが、
風化という言葉もあるように
物質を解きほぐして、小さな材料に戻して
また地球に広く戻していくという作用で、
言い換えるなら生まれ変わりやリセットであり、
固定されたものを許さないという態度なのです。


一方で、ほとんどの創作物というのは
自然にあった材料に手を加えて
作り手の望む機能を持つ形に固定された存在で、
風はそれを絶えず分解して
循環させようとしてくるのだから
これはもう相性が悪いというかほとんど敵です。


でも創作において
分解は飛躍をもたらすこともあって、

例えばイリノイ州シカゴ市は
ウィンディシティと言われるくらい
風が強いことで有名ですが、
1871年に火事と強風が重なり
火災旋風となってシカゴの街が
一晩で焼け野原になってしまいました。

この火事による被害は甚大なものでしたが、
その後ゼロからの都市づくりで
世界中のあらゆる建築家たちがシカゴに集まり、
都市デザインや高層ビルで大いに実験し、
シカゴ派というジャンルができるくらい
建築学が発展しました。
破壊と創造のお手本みたいな事例ですね。

ウィキペディアより


このように風の作用とは分解や破壊であり
その後また新たにものを作るかどうかは
生き物側の努力次第、
つまり風ってえやつはやりたい放題やって
トンズラする ろくでなしの太え野郎なのです。


ということで現在の私には
友人の髪型みたいに、
焼き物を作るスタイルとか
つみ上げた暮らしとか
やらなければならない役割など
固定された持ちものが増えたことで
風による分解を拒むようになったのでしょうね。

何も持たなければ、あるいは捨て去る覚悟があれば
自由も革新も受け入れられそうですが
それは年齢と共に難しくなっていきそうです。
もし持ってるもの全部捨てちゃったら
自分がどういう人間かわからなくなりそうだし。

しかし風がいかに酷いものなのかと
書こうとしたら、破壊と再生とか
物づくりのプラスになりそうな面が出てきてしまって
むしろ私がそれを受け入れられない
保守的な小物みたいになっているじゃあないか。
否定できないけど。

もしかしたら向かい風を受けることでしか
さらに高く飛ぶことはできないのかもしれませんね。

おれ

高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目

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