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リバタリアンパターナリズムってなんぞ?

はじめに

前回リバタリアニズムとパターナリズムの解説を行いました
その中でどちらにも欠点と長所があることが分かりました

そして、これは実際提案されている思想なのですが、その二つをミックスしたリバタリアンパターナリズムというものが提案されているようです

リバタリアンパターナリズムは人類を救えるのか?

前回の記事はこちらこちら

前回の要点

リバタリアニズムは自由を重視して「他人に迷惑をかけなければ何をやってもOK」という考え方でした
個人の行動を他人が制限するなんて言語同断だという考え方ですね
リバタリアニズムは全人類がお釈迦様のような賢人になれば最も優れた思想となりますが、人類は愚かであるがために散発的に登場しては秩序を獲得できずに自滅してきたため社会にはいまだ浸透していません

対して、パターナリズムは秩序を重視して「俺の言うこと聞いとけば間違いないんだから従え」という考え方でした
個人の行動を制限しても良い結果に導けるのであればよいだろうという考え方です
人類の大半が愚かだとしても一部の賢人が指導すれば社会は良い方向に導けるという考えの下、人類の歴史の中で常に実践されて結果として秩序をもたらすことに成功してきました
人類の歴史はパターナリズムが支配的だと言う話をしました


リバタリアニズムとパターナリズムの決定的違い

リバタリアニズムとパターナリズムの決定的な違いは、個人の行動に「同意」もしくは「納得感」があるかどうかです

自分で考えて決定することが「リバタリアニズム」の特徴であり、他人の意見に盲目的に従うことが「パターナリズム」の特徴ということができるでしょう

対して、社会に対して良い結果を導くのが「パターナリズム」であり、社会によくない結果をもたらすのが「リバタリアニズム」ということができます
※人類が愚かであるという大前提の下です

表にするとこのようなことになるでしょう


さて、リバタリアニズムにもパターナリズムにも長所と欠点があることが分かりました
しかし、どちらにも欠点があるので、もっと良い考え方はないのかといって提唱されているものがあります
それがリバタリアンパターナリズムです


リバタリアンパターナリズムとは?

これはリバタリアニズムとパターナリズムの良いとこどりをしようといって提唱された考え方です

リバタリアンパターナリズムとは、リバタリアニズム的に個人の自由は尊重しつつも、パターナリズム的に社会にとって良いことには従ってもらえるように個人の行動を誘導しようという思想です

要は人間を手のひらの上で転がして社会を良い結果に導きましょうという考え方をするのがリバタリアンパターナリズムです

手のひらの上で転がすという表現はマイナスの意味に使われることが多いですが、手のひらの上で転がされている人も転がされておけば結局はメリットがあるという仕組みづくりをしようというのが「リバタリアンパターナリズム」の考え方のキモです


リバタリアンパターナリズムの例 - 小便器の使い方

例を見た方が早いと思います
小便器の例が分かりやすいと思います

リバタリアニズムの場合

例えば小便器を使う場合、まずリバタリアニズムの社会においては、小便器をどう使おうが個人の自由になるので、人類が愚かな場合は、小便器を適当に使う個人たちによって小便が飛び散って汚れるでしょう
個人としては、きっちり使うよりも適当に使う方が楽に小便ができるので、個人の効用はプラス、社会的には掃除の負担になるのでマイナスということが言えるといえます
文字で書いてもわかりにくいので、表にしました
人間が愚かな場合はオレンジ色の方が選択されるということですね


パターナリズムの場合

次にパターナリズムの場合です
きっちり使わないと親などに殴り飛ばされるという状況を考えてください
その場合は、適当に使う方がリスクが大きくなるので、きっちり使う方を選択するでしょう
そして、この場合は個人的効用は特に何も得るものも失うものもないのでプラスマイナスゼロになりますが、社会的効用はトイレ掃除の負担が減るので、プラスになります
そして、運が良ければこのトイレ掃除が楽になったことで、店側に余裕が生まれ商品の値段が下がるかもしれません
そうなれば、個人的効用もプラスに転じる可能性がありますが、そこに関しては予測できないのでこの表においてはそこまでは考えません

どちらにせよきっかけは親に殴られたくないからきっちり使うという選択肢を取った結果誰も不幸にならない社会が実現できました


リバタリアンパターナリズムの場合

さて、しかしながら上記で紹介したパターナリズムの状況においては殴られる可能性があり穏やかではないですよね
反抗心が生まれるかもしれずトラブルが発生するかもしれません
抑圧というのはそれもまた愚かな一手であるといえるでしょう

そこで登場するのがリバタリアンパターナリズムです

リバタリアンパターナリズムの考え方においては、個人が自らきっちり使いたくなる仕掛けを小便器に施します
この例が、小便器にハエのマークを付けるという施しです
ハエというのはアメリカの例で、日本では的になっているケースが多いですね
これはハエという的を狙いたくなる人間の心理を利用した施しで、狙うものがあれば人はそこを狙いたくなる習性があります
実際に、的を用意することで小便器の汚れはかなり軽減されたようであり全員がハッピーな社会を実現することができましたね


リバタリアンパターナリズム最強じゃん?

そうです
リバタリアンパターナリズムが最強です

しかしながら普及に当たっての壁が存在します


リバタリアンパターナリズムが普及しないわけ

至極単純な話ですが、リバタリアンパターナリズムによって、全てをうまい具合に回せる仕組みづくりを考えるのが非常に難しいということです
上の例でいうところの小便器の的の発想ですね
頭がいいだけではなく心も清らかではなければリバタリアンパターナリズムを実現するような発想は出てこないのです

つまり、非常に頭のいい人類つまり賢人がいないとできないことが、リバタリアンパターナリズムを実現させるうえでのネックになっています

そしてこれがすべてです
リバタリアンパターナリズムは賢人を必要とするので、ここからも逆説的ですが、やはり人間は愚かであることがわかってしまいますね


リバタリアンパターナリズムの可能性

しかし希望はあります
リバタリアニズムはそもそも全人類が賢人でなければ成り立たないような思想でした
しかし、このリバタリアンパターナリズムはたった一部の天才的な賢人が現れるだけで実現が可能になるかもしれない可能性があります


人類は今現在80億人もいます
歴史上人類は累計1000億人誕生したといわれているので、累計人口で考えても少なくとも全人類の10%程度の人間が現代に集まっていると考えることができます
人数が少なかったころの人間でも天才と呼ばれるような偉人が数多く輩出されていることから推定できる答えとしては、現代にもその歴史上の偉人に匹敵するかもしくはそれ以上の天才がうじゃうじゃいるはずだと考えることができます
というかそう考える方が普通です

昔に比べて技術も進歩しています
そして人間も数多くいて教育レベルも上がっています
歴史上の偉人を超える天才がうじゃうじゃいる現代において、リバタリアンパターナリズムが実現できないなんて私には思えません

リバタリアンパターナリズムは賢人を引っ張ってきてその人に任せるだけで社会が良くなるのです
なので私たちがやらないといけないことはただ一つ、世界に埋もれている天才たちを担ぎあげて最高の社会を導いてもらうことだけだと思います


リバタリアンパターナリズムで人類を救う方法

私としてはもう人間社会はこういう仕組みにすればいいと思います
人類には必ず天才が紛れている
⇒その天才にリバタリアンパターナリズムの思想の下、社会システムを作ってもらう
⇒うまくいかなかった場合、その人間は天才ではないことが露呈する
⇒天才が現れて完璧な社会が実現するまで以下ループ

これが人類が幸せになる=完璧な社会が実現するための最も確実な方法だと私は思います
ですので、今現在権力の座でふんぞり返っている為政者たちは良い社会システムを構築できていないということから天才ではないことが既に露呈しているので、今すぐ新たな天才達に席を譲るべきだと思います

ちなみに個人的な考えで言うと人類はいずれとてつもない年月をかけて(仏教世界では56億7千万年かけて)完璧な社会に到達するのですが、↑で言ったことを実践していればもしかしたら自分の生きているうちに完璧な社会の到来を見られるかもしれないと淡い期待を抱いていたりします

将来無駄な血を流すことなく、自分たちの代で完璧な社会に到達したいものですね
リバタリアンパターナリズムにはそれを実現する可能性があります


おわりに

よく考えれば天才の登場を待つのでも良いですが、自分が天才になるという方法もありますね

なので、自分も人類のために頑張って天才になろうと思います
そう思うとすごい前向きな思想ですね
みなさんも一度リバタリアンパターナリズムの思想にどっぷりつかってみてはどうでしょう?
神にも匹敵する天才になれるかもしれませんよ



以上、リバタリアンパターナリズムの話でした


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