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バナナフィッシュにうってつけの日

 シーモアは狂人だろうか。シビルとの会話は不自然だったろうか。足を見ていましたね、と海水浴客の女に難癖をつけたのは異常な言動だったろうか。

 かつてはいまほど時代背景や、彼がいわゆる第二次世界大戦からの帰還兵であり、PTSD患者だったことなどまったく知らなかった(思い至らなかった)わけだが、10代当時、読了後に彼のことを、頭がおかしいなどとは思わなかったと記憶している。

 それよりずっと、彼の憂いの理由が、自分にもわかるような気がした。

 妻も、その親族も、彼を取り巻くものがみな、空虚でインチキだった。
 それは振る舞いであり、会話であり、なにもしないことであり、そんな惰性で続く人間の営みは、生きていれば、そこここに見受けられる。

 あのとき偶然そこに居合わせた、幼女であるところのシビルだけは、そんな日常に、小さな風穴をもたらしてくれた訪問者だった。

「これからバナナフィッシュをつかまえるんだ」

 青年はあるいは半ば本気で、現実には居もしない幻の魚を、ひょっとすると万が一、億が一、いるかもしれないだろう、という祈りを、自らに捧げていたのかもしれない。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、シビルはシーモアとの遊泳の昂る気持ちから、悪気のない嘘をつく。その嘘は、インチキな大人たちが茶飯事つくような嘘とはまるで違う、幼い子供が半ば本気で、半ば嘘だという自覚を持ちながらついた嘘。酸いも甘いもいまだ知らない、束の間許される子供という時間の体現。

 シーモアが思わずシビルの足の裏に接吻をしたのも、奇跡的に応えくれたシビルと、(もしそんなものが存在するならばだが)神に対する、心を込めた感謝の口づけのように思えた。


 だが場面は一転する。結局そんな時間は長くは続かない。ひとたびこの現実の世界に引き戻されると、砂の城は粉々に砕けて、途方もない、忙しげで空虚な別の空間が所狭しと敷き詰められている。


 10代の頃からずっとそうだ。PTSDじゃなくたって、おれはいまでもこめかみを撃ち抜きたい毎日を過ごしてる。

 バナナフィッシュにうってつけの日をね。

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