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月曜が憂鬱なのは、日曜のイベントが楽しくて、傷付いて、心がすり減っているから

 現実での人との交流は、思いがけず、自分になかった視点を知って、驚いたり感心したりして、勉強になることもある。
 ある人に触発され、自分一人では決して「やってみよう」などと思い立つことすらできなかったであろうことに、チャレンジするチャンスを得たり、それによって経験が培われたりする効用もあれば、いい意味での対抗心、「みんな頑張ってるんだな、おれも負けないようにいろんなこと頑張らなくちゃ」と刺激を受け、健康的な精神状態で、それを素直に受け取り、日々の糧にできるというメリットもある。

 その一方で、私のような低スペックで、嫉妬心・虚栄心の強い人間からすれば、時々それが礫のように感じられ、その日の夜、翌日、くらいには心を引き摺る裂傷を負うことも、同じくらい、いや、礫が飛んでくることのほうが多い。
 一般的にはそれは砂粒と思われる些事であっても、私のような、水に浸したトイレットペーパーメンタル人間にしてみれば、仕事を1日おやすみしたくなるほどには、傷を負う。

 リアルで人とコミュニケーションを図るとき、「できない自分」が浮き彫りになり、否応なく対峙させられる瞬間がある。(SNSにおいては、「サジェスト機能」のおかげで、友人知人を除くそうしたノイズは、極力低減される。あ、おかげというのは、少しの皮肉も込めている)

 33歳にもなって、十も離れた子に気を利かしてアシストしてあげられなかったり、ほんのひとこと、ひと振る舞いを行えば済むのに、自分のことでいっぱいいっぱいで(基本的にこの状態なのだが)、周囲への気配りをする余裕がないときは、決まって数時間後には後悔して情けなさや恥辱が襲ってくる。それは大抵帰りの電車の中だ。
「あのときああしていれば」
「あのときこうしていれば」

 そんなとき、自分に失望する。己の不甲斐なさ情けなさに。経験値のなさに。こんな性格で生まれてきてしまったことに。
 勝手にショックを受けて、その後1日間、自滅する。だから今日は、有給を取っていてよかった。きっとそうなるであろうことは、予見できていた。
 私はとくに、大勢の人と会ったその夜と翌日は、精神が荒廃している。楽しいイベントであっても、人と会うことそれ自体が、エネルギーを使うことは然ることながら、このように劣等意識が刺激され、3人に一人くらいのペースで、自責ポイントが溜まっていく。

 今日も洗濯物を干しているときに、「思弁と行動が一致しない、なぜ彼らのように振る舞えないのか、不甲斐ない自分が悔しい」などと呟いているうちに、嗚咽してしゃがみ込み、しゃくり上げて30秒ほど泣いた。鼻が垂れてきたので、鼻を噛むとスッキリして、泣き止み、再び洗濯物干しに戻った。

 また、才能のある人、が褒められている場面に遭遇しているときも嫉妬心で心が狭くなる。心が狭くなる自分を感じて、嫌な気持ちになる。 才能があれば誰にでも嫉妬するわけではない。ひょっとすると、ひょっとしていたら、自分もそこに、手が届いていたかもしれないジャンル、ハードルだと主観的に判断した人物に対して、嫉妬する。それはもう、猛烈に。(つまるところそれは、音楽や物書きだ) もちろん、一流のプロには嫉妬しない。最初から歯が立たないのはわかっているから。だが、その音楽や、詩や、書き物を見聞きして、「これなら私にだって対抗できるだけの力がある(あった)」と、思ってしまうものに関しては、これはもう、激しく嫉妬というか、対抗心を勝手に燃やす。「表に出らんかい!!」「どっちが本物か、白黒はっきりさせたる!!」となる。 もちろん、世間が認めているのは、その話に聞く「その人」なのであるが、なぜか私は、私を過大評価しているので、こんなことになる。


 カレンダーの過去の分析から段々わかってきたのだが、私が月曜日急遽虚無感に襲われ、仕事を嘘の理由で欠勤しがちなのは、世間でよく言われる「月曜日は憂鬱だから」ではない。「日曜日に楽しいイベントがあったから」だ。日曜のハイと月曜のローを、浮き、沈み、を感じるからではない。
「大勢に囲まれて、日曜日を楽しんでいればいるほど、己の不甲斐なさと向き合わされて日曜の夜から死んでいるから」だ。
 余韻に浸れないから月曜が憂鬱なのではない。余韻に浸っているから、余韻に沈められているから月曜が憂鬱なのだ。

 なので、これはもう排泄というか、私の身体における自然の摂理として処理するほうがいいのかもしれない。前もってわかっているのなら、今後も同様の対処を講じるのが賢明なのだろう……。


 それにしても、ここ二週間くらいのあいだに、私は頭が禿げるのではないかというくらい脳みそがショックを受ける出来事に遭遇した。(言及するとまた長くなるので割愛するが)

 それは当たり前のことなのに、私はいまだ信じられない。

「私がいいと思うものを、みんながいいと思うとは限らないんだ」

 私は、私の書いた文章が、「いい感じだ」と思っている。だから、みんなも、「いい感じだ」と思うと思っている。いや、そんなことはあるわけがない。ということもわかっているのだが、脳みそが「それは信じられない」と言って意見を却下されてしまう。だから私の結果的な思考は、「みんな、私の文章が、いい感じだ、と思っている」というところに帰結する。というかなんなら、私の文章、あるいは選択したもの、それらを手に取る前から、(私が選択した)本そのものがオーラを放っており、本書に興味を持つ人は、みんながなんとなく引き寄せられるだろう、と本気で思っていた。

 こちらは今回古本市で出品した本で売れた本だ。

古本市で売れた本。ベストセレクション、完売必至と踏んで臨んだが、1/3しか売れなかった。

「スメル男」は、値下げするまでは厳しいだろうと思っていた。が、知らぬ間に売れていたようだ。
 半値とはいえ、「タネが危ない」が売れていたことも驚きだった。

「仕事なんか生きがいにするな」は、割り引く前から即刻売れるだろうと踏んでいたが、値引くまで売れ残った。同著者の「普通がいいという病」は半値にしても、結局売れ残った。

 そして、ここに記載がないものは、値下げしても売れなかった。私個人としては「アリエナイ」のだけれども、そこでちょっぴり、腹落ち、とまではいかないまでも、喉のあたりは通過した理解した気持ちがある。
「みんな、おれがいいと思うものを、「いい」と思うとは限らないんだ……」

 なにをおかしなことを言っているのか、と思われるだろうが、私は本気でそう信じていた。「信じる」ということの愚かさ危うさを、誰よりもわかっていると思っていた自分が、「信じて疑っていなかった」。



なんたら下品なディスプレイか。

 閑話休題。今回自作したZINE『愚者色情パンくずソクラテス』は、18冊持っていき、うち6冊お買い上げ頂いた。(15冊は売れるだろうと高を括っていた←)
 今回共同出展させていただいたお仲間の方たちが5名と、まったく私のことを知らない1名の方がその内訳だ。

 当初は、流れのお客さんが「あけっぴろげに書かれていて好きな作風です」という感想までいただき、お買い上げいただいたことを一番に喜んでいたが、(いや、もちろんうれしいのだが)、それと同じくらい、共同出展した読書会仲間の方たちが購入してくださったことも、時間の経過とともに、しみじみ有り難さを感じ、いまでは6名全員に対して、同等の感謝の気持ちでいっぱいだ。
 というのも、こちらの5名も、決して忖度の結果購入している、というわけではなさそうだからだ。一人は奉仕精神に溢れた方なので例外ではあるが、4名に関しては、私という個人に、この人が書く文章は一体どんなものなんだろう、という好奇心から手にとってくださった、ということが、なんとなく伝わってくるからだ。

 そしてまた、ほかの読書会仲間の購入されなかった方たちにも、同様の気持ちでいる。
 なんと信頼のおけるメンバーなのか。「顔見知りだから」そんな理由で、忖度して買ったりしない。いっぱいお喋りはしたけど、本にまで関心は示さなかった。それでいい。それが普通だ。まだまだ私は、彼・彼女らに、本が気になる存在、にまでは成れていないから。
 こんなに信用できる人物があるだろうか。静観しているというその行動が尊いな、と思った。

 イベントそのものは、いい経験になったし、みんなとなにかをやるというのは、楽しかった。打ち上げも楽しみだ。

 今日は充電できたので、明日はきっと仕事に行けると思う。


自分勝手に傷ついて また立ち上がっていく

『Vernal Times』 渡會将士


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