「散文すぎて、文法めちゃくちゃ」現象をどうにかしたい。ー作家と編集者、2つの視点

私あるある〜な話で申し訳ない。

書きたい!今すぐ書きたいんだ!
という情熱のまま、書き始めてしまうから、
時々、文章がめちゃくちゃです。笑

推敲も間に合っていません。
誤字は無いように一応気をつけていますけど。

なんなら話のジャンルも固定されてないから、私をフォローするのは難しいだろうなと思います。
この話は、また別の記事で。(書く予定)

↓後日書きました。


私が文章を書いていると、
語尾が "〜である調" で始まったはずなのに、
文章の終わりに近づくと "〜です.ます調"  になっていたり

とにかく書くだけ書いて
後で読み返すと、文章構成がおかしい事とかがある。
あ、この話の後に、このエピソードを入れた方が…みたいなこと。

そう思うとnoteは便利だ。
コピペで文章入れ替えたり、誤字脱字あっても後で直せたりするし、

“完璧完成新鮮できたてホヤホヤ“状態で発信する必要もないのかなって思っています。結局読んでいる人も、流れ着いて偶然たまたま読んでいるだけかも知れないから。

ということで、私のNoteは時々勝手にアップデート入っているかも知れません。すいません、付け足し癖があります。苦笑

さて、このNoteを読んでいて思うのが、
なんだか文章を書いている人たちは、

外で得た情報の共有発信派と、自分の中から湧き出る心情派
とに分かれる気がする。さらに、

読みやすさ重視派と、物書きの情熱派にも分かれる。

情熱は確かに大事だ。
そのパッションがあるからこそ、人を惹きつけるものがあるのだと思う。
表現者である、必死なる生、想像と創造の活動である。

でも読みやすさも大事だ。
文章を公開すると言うことは、誰かに読まれるという事。これを忘れてはいけない。あくまで現実的に、客観的に見れるかどうか。
(自分はできてないことが多い、反省…)

読まれることを忘れてしまったら、それは日記・独り言と同意である。

だから、パッションで文章を書く作家には、冷静に指摘できる編集者・読み手が不可欠なのだと思う。

これは、文章に限ったことではない。クリエイターは誰しもそうだ。

1人で作品をつくる人は、この2つの視点を同時に持っていなければならない。

まぁ…“〜である。“ と “〜ですます。“の混同は、何か原因や使い分けがあるかも知れないし、単に文章の客観視能力がないだけかも知れない。だが、その時のダメな自分を残すと言う意味で、そのまま置いておこうと思う。

振り返ってみて、過去の失敗を肥やしにするつもりで取っておいて、これからの作品を徐々にアップデートしていきましょうか。(結局独り言で終わる)

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