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⑥無関心社会の罪


何も問題がおきずに、生きられる社会
なんてあるのだろうか。

生きづらさの背景に目をやると、
たくさんの問題が出てくる。
虐待、いじめ、性被害、貧困、
どれかひとつを解決出来ればそれでOKなのだろうか。

虐待で悪いのは親。
それはもちろんだ。
親と子を比べた時に完全に立場が弱いのは子供であって、
守るべきものは第一に子ども。

それを大前提に考えて欲しい。

子供もいつか大人になる。
大人も昔は子供だった。

何故?
何故、子供が親になる段階でストップ出来なかったのか。
なぜ立て続けに家系的に虐待は怒るのだろうか。

そして、声をあげられない背景には
「親に言った事がバレたら怖い」
だけだろうか。
声を上げても聞いてくれない、
されたと言ってるのに疑いの目から入られる。
支援を求めてもニーズに合わない。
家族を壊される恐怖。
解放という名の野放し。

そんな社会の元で生きてきた、言わいる
「アダルトチルドレン」は、
愛情を知れるのだろうか。
愛情表現の仕方が分かるのだろうか。

子育ても、家事も、仕事も、学校も、日常生活も
生きてく上で常に何かをしないといけない、私たちは
きっと悩むしもがくし苦しむし、時には苛立つことだってある。

そんな時に誰かに頼れる社会だったら。
単純でしょう。

子供も親も頼れる人がいないと壊れる。
それは、健全な家族も同じだと思う。

虐待を受けている子とか
いじめを受けている子とか
わざわざそんな看板必要だろうか。
一生背負わせるのがその子の幸せに繋がるのだろうか。
あくまで通過点であって欲しい。
生きてく上で最低で最悪ではあるけれど、
誰よりも人の痛みがわかるための経験であって欲しい。
憎しみから憎しみを産まないで欲しい。
そんなエゴみたいな綺麗事を叶えるためには
社会が変わらなければいけない。

「リストカットをしている子はメンヘラ」
「不登校はナマケモノ」
例えば沢山あげられるけれど、悔しくなるからこの程度に。
そんな目で一人の人間を類付けるのが当たり前のこの社会に、
子供を守るとか、そんなことできるのだろうか。
虐待もいじめもおなじ。
虐待されている子は大変だ
いじめを受けている子は可哀想だ
一人一人違って、自分の置かれてる状況に時には向き合って時には逃げて必死に生き延びているのに、
なんで周りによってつけられた看板で自分を判断されなきゃ行けない。

周りと自分を比べることは出来ないと思う。
客観的に瞬時に誰かと誰かを比べることは可能かもしれないけれど。
自分を見る目と人のことを見る目はまた違うと思う。

傷の深さとか、そういうことを
他と比べ続けるのはやめてほしい。
自分の方が深いからしんどいんや
自分の方が浅いから頑張んないと
そう思ってしまうことはあると思う。
だけど、それを続けて毎回毎回考えてても
しんどいだけや。
本当に。
自分を見てやれるのは自分しかおらんで、
自分が自分を判断して欲しい。
過去の自分と今の自分と未来の自分を見て欲しい。
できるなら、明日の自分を考えてあげて欲しい。
できることから1歩ずつ歩いて見てほしい。

そして、そうやって躓いた時に
周りに頼れる社会を作るよ、絶対。

私は幼少期の自分とか、思春期の自分とか
しんどい経験とかをできることならバネにだってしてやりたい。
無かったことに、忘れることができるならもちろんしたいけどそれは出来ないなら、せめて経験値にしたい。
だって、これからの人生の方が長いんだもん。
被害者として生きてても、最初はいいかもしれないけどそのうち自分が苦しくなる。

明日を生きるって大事よ。

そんな私もまだまだ発展途上😓

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