はじめまして、高卒。逆境や挫折が人生に彩りをくれた話
投稿に目を停めていただきありがとうございます。
まずは自己紹介をしたいと思います。
自分が何者なのか(何者でもないのだけど・・・)
人生の棚卸しをしておきたい。そしてこれから先様々なチャレンジや経験をして彩りのある人生を送る宣言もしておきたい。
これから出会う素晴らしい人たちと
エネルギーと癒しを相互交換できればと思います
第一章 何者でもない
平凡な家庭の平凡な私。
はじめまして、Mr.Matsuuraです。
私は公務員の父、専業主婦の母、姉の四人家族の長男(B型)として
大阪で生を享けました。
父親は郵便局で働いていました。
ごくごく普通な一般家庭だと思います。
幼少期は兵庫県西宮市で育ちました。
住んでいたのは郵政の社宅団地です。
幼少期、性格はおとなしく内向的、運動音痴。
幼稚園ではいじめも経験しました。
毎日いじめっ子から逃げ回っていたおかげで隠れるのが天才的にうまくなりました(いらんけど)
自我もできてない頃から集団生活に馴染めずにいました。
幼稚園が社会との初めてのつながりだったとすればいきなり不適合だったよう感じます。なので家族と過ごすことが安心できる居場所でしたが父は普段はどちらかと言うと大人しいのですがアルコールが入ると性格が暴力的になり母に対して暴力を振るったりしていてとても怖かった記憶があります。
普段大人しいのでお酒を飲むと開放的になりストレス発散していたと思いますがそれが暴力に表れてしまう。
小さい頃は父がお酒を飲む行為が本当に嫌でした。
西宮市にある小学校に通いました。当時のニックネームは「まっつん」
運動音痴。人見知りな性格で3つ年上の姉の後を付いて回ってばかりでした。唯一好きなことはキン肉マンや聖闘士星矢の消しゴム遊び、ビックリマンチョコシール収集、自作の漫画を描くこと(なかなかの根暗ぐあいです)
当時の友達も同じような感じの子が多かったように思います。活発な感じではなく自己表現は最小、自分一人でも楽しめて居心地が良いおとなしめな子
一緒にゾイドで遊んだり、漫画書いたり
それはそれで楽しい生活だったように思います。
ある日、父が『ワシは田舎暮らしがしたい!』と
抱えていた思いを一念発起で行動に移し兵庫から引越しが決定します。
どのような母とのやりとりがあったのは分からないですが
両親の故郷は父が熊本、母が長崎だったので
いずれは故郷に帰りたかったのかもしれません。
過去数回行ったことのある母親が生まれ育った長崎の離島に
一家で引っ越しました。
神戸ポートピアアイランドから阪急フェリーに乗って九州に向かいました。
小学4年生の春になります。
長崎にある離島生活
たしかフェリーは北九州にある新門司に着いたと思う。
そこから移動して九州の最西端「平戸」に到着した。
平戸からは島までの直行便フェリーで約40分
母親の故郷である的山大島が見えてきた。興奮しました。
(ドローンの空撮動画があったので)
兵庫から長崎へ転校。何もかも新鮮だった。
運動音痴、人見知りの自分は大丈夫だろうか。不安もあったが
島のみんなは都会から来たわたしに興味津々で好意をもってくれた
みんな素直で気さくキラキラした目で受け入れてくれとても居心地が良かったのを覚えています。
小学校は山の上にあり自宅からは山登り登校で徒歩40分以上。時には牛に追いかけられながら(放し飼いなので)、気づけは足腰も鍛えられて行った。
人は環境に適する能力がある。
都会になかった刺激がたくさんあった。
カブトムシなど昆虫や蛇、海には蟹やサザエ、鮑、トビウオなどたくさんの魚。出会うものが全て新鮮に映っていたと思う。
都会のようなインドア遊びは少なくなっていた。
特に夏は海で泳ぐ。夜は花火をするこの一択。
夏休み期間ほぼ毎日泳いだ。台風の日でさえもみんなで泳いだ。
灯台の先端まで登ってみんなでジャンプ。干潮の時は5mくらいあって着水で足の裏が真っ赤。お腹が空けばサザエを割って海水で洗って食べた(ラッコか)
兵庫にいる時は25mも泳げなかったのに、海の中ではイルカの様に泳げるようになった。海面と並行して向かい合いながら泳ぐと別世界にいる感覚で楽しかったし友達の真似をして足ヒレ(フィン)を着けて深い海の底まで潜った。海底が見えない場所だとサザエは岩の下に隠れておらず岩の上にいる。みんなただ泳いでいるわけではなくサザエや鮑を取っていた。
島にある旅館に売って小遣い稼ぎをするのだ。取引額はサザエで確か6個で1,000円だった。夏休みに数万から数十万のお小遣いになる。
みんなそれで花火に注ぎ込み夜は戦闘ごっこで遊びまくった。花火の課金が子供じゃないw
数万円買う上客。おばちゃんにっこにこ。
ちなみに長崎は花火爆竹が有名だ。
お盆は爆竹で先祖・故人の霊をにぎやかに弔う。
お墓の前で花火をする。みんなでご飯食べて飲んでそして花火する。うんとにぎやかに。
大陸の影響なのか分からないが、わたしは夏のこの雰囲気が大好きだ。夏の夕暮れから夜のあの雰囲気と花火の音が震えるくらい好きだ。
御盆の長崎市内
話を戻すが島で自然に触れ、夏は友達みんなで海に素潜りしながらもう毎日楽しくて
先日映画館でアバターを見たがこの感覚がすごく似ていて島で過ごしていた頃を思い出した。
自然からの贈り物。
そうして遊びながら自然と過ごしていると
気づけば体型が変わっていた。
体力がつき体型が変わり、自分が好きになり言動も変わっていったように思う。『心の自信』が芽生えたのだ。
小学校では生徒会長を務めた。サッカー部ではキャプテン。
あの人見知りな自分は影を潜めた。
成功体験を手に入れた。
自ら環境を選んだわけではないけど、環境によって人は変えることができる。
人は環境に適応できる。そして環境によってさらにアップグレードできる
自分を高められる場所
今もあの空気感や美しさが鮮明に残っている。育ててくれた自然に対する感謝や尊敬
ここでわたしのアイデンティティは確立したと思う。
離島生活からの脱出
いつしか思春期を迎えていた。
少年から青年になろうとしていた。
離島での高校進学の選択肢は大きく2つ
①島にある分校②フェリーで通学する
姉は②だったが朝は7時、冬の日本海は時化で荒れて通学する船は命懸けだった。
わたしは島から遠くに出たかった。
2つの選択以外が良かった。
中学3年生の多感な時期でエネルギーに満ち溢れていたし外の世界に出て自分を試したくなっていた。もっと世の流行を見たいし触れたいのだ。
ブルーハーツや尾崎豊。MCハマー、たくさん影響を受けた。
当時、三浦知良選手に夢中になっていた。サッカー部にいたこともありKAZU選手になりたくて毎日練習の明け暮れていた。
KAZUダンスなんて毎日校庭で披露して女子の視線を気にしていた(阿呆)
ちなみにサッカー部の成績は万年地区予選一回戦敗退。
そんな訳でわたし自信も特別サッカーが上手いわけではない。
ただ馬鹿な自信と情熱だけは圧倒的にあった。
井の中の蛙大海を知らず。
ブラジルに行こう。
KAZUの様にブラジルに行こう。
恥ずかしながら本気で思っていた。
何者かになれる根拠のない自信があった。
本気でブラジルに渡ってKAZUのようにプロサッカー選手になれると思っていた。
恐ろしいほどのアホ自信だ。
母に伝えた。「ブラジル?海外なの?」以上。
父の反応。特になし。
この両親はふざけているのか。はたまたわたしに関心がないのか。
なので進路シートには第一志望「ブラジル」と記載して提出した。
数日経って進路の三者面談があった。
母も冗談っぽい感じで担任に「ブラジル行きたいなんて言うんですよ〜」と話していた。当時の担任先生は真面目な反応だった(ような覚えがある)
なぜブラジルに行きたいのか質問された。
KAZUが好きでサッカーが好きで自分を試してみたいと伝えた様に気がする。(良い様に記憶がとらえている可能性があるが)
担任の先生はいきなり海外は親も心配するし費用もかかる。サッカーをしたいのであれば長崎にも全国屈指の高校もあるのでそこはどうかと勧めてくれた。荒唐無稽な坊主頭の15歳少年の言う言葉を真剣に受け止めてくれた。
辻先生。本当にありがとうございました。
先生は国見高校を勧めてくれた。当時国見高校は全国サッカー選手権で優勝実績もある強豪校である。ただし基本「坊主」
私は「坊主頭はもう嫌なのでいいです(結構です)」と断った。
もう呆れるレベルで阿呆なのだ。
地方の地区大会1回戦で負けるチームにいるのに。
リフティング100回もできないのに。
スパイクも母親が買ってきた謎のメーカーなのに。
しかし先生は一応調べておくと言ってくれた。
次にピンクのユニフォームが有名な長崎日大高校を勧めてくれた。
何か映像を見た記憶がある。(当時はスマホもないからビデオ?)
先生が準備しておいてくれたのか記憶が定かではないが。
当時長崎日大サッカー部は長崎県下の強豪校で
国見高校の次に強く長崎県で準優勝をしていた。
髪型は自由。ピンクもハイカラで妙にカッコ良かった。
私はすぐに「ここにします。」
髪型の影響は少なからずあったと思う。そして強い。
誰も来てとも言っていないのにサッカー部に入部する気満々
そうして目標が決まり動き出した。
後日、国見高校は教頭先生のお知り合いがいてサッカー部について聞いてくれていた。1軍から5軍まであって全国で腕に自信ある生徒をスカウトして入部させているらしかった。何かしらの称号を持っている。選抜メンバー、優秀選手、優勝経験、、、もちろんわたしは何も持っていなかった。
実績もない生徒は高校生活で日の目を浴びることはないとやんわり言われた。
気持ちは長崎日大にあるので特に何も感じなかった。
運が良かった。
運の強い人間とは「自分は運がいい」と信じている人間だと言う。
ろくに受験勉強もできておらず。準備不足も甚だしい状態で受験した。
受験前日から母親と島から諫早まで2日かけて来ていた。
試験内容は全く分からなかった。
恥ずかしい話だが三角錐の面積を求める問題で三角形の数式で回答したぐらいだ。完全に落ちたと思った。
面接は理事長と学校長と母と私の4者面接だった。
校長室なのか特別な部屋に案内された。
ここで緊張しては駄目だ。最後思いを全力で伝えた。
「私が貴校に入れた際、サッカー部を必ず全国優勝させます!」
言い切った。阿呆なのだ。阿呆なので根拠もなくできると信じている。
後で試験結果を見た(聞いた)理事長と校長は成績を見て呆れたと思うが
辻先生が内申点を最大に評価して推薦してくれたのだろう
そうでなければあの様に特別扱いされることもなかった筈だ。
先生には感謝しかない。
島に帰る帰路。母に「ごめん。落ちたと思う」と伝えた。
母からは特にがっかりしたり厳しい言葉はなかった。
そうして母と島に戻った。
数週間後、授業中に他の先生から呼ばれた。「職員室に来るように」
職員室に着くと電話にでるように言われた。
電話の相手が辻先生だったのか曖昧だが、
「長崎日大高校に合格した。」
そうハッキリと聞こえた。驚いた。奇跡としか言いようがない。
信じられないくらい嬉しかった。
天にも昇る思いとはあの感覚なんだろう。
しかし手応えがないということは実力ではない。
「運」としか言いようがない。
運が良かったのだ。そう思っている。
サッカー三昧の高校生活。
高校生活は島からは通学できないので下宿だ。
サッカー部寮に入った。
寮母寮父が家族経営する木造の民宿みたいな寮だった。
2階に2・3年先輩が5部屋。1階には1年生
寮に入った数日間は親元を離れた寂しさで泣いた。
数日経つと先輩たちにも覚えてもらえるようになり、徐々に環境に慣れた。
新しい環境に適応する力は島で鍛えてもらっていた。
サッカー部に入るメンバーは
中学での優勝経験や県や市のトレセンメンバー(強化選手)で
輝かしい実績があった。
とんでもない所に来てしまったと思った。
今では問題だが体育会系では「3年神、2年平民、一年奴隷」カースト制度だ
学校が終わると走ってグランドまで行きまずはグランド慣らしと準備だ。
1軍と2軍はハーフコートで分かれているが容易に飛び越えれる線ではない。少ない機会で実績を残せない限り1軍にはなれない。
ずっと2軍で冷や飯食いの先輩もたくさんいた。
良かった点は寮の先輩たちは1軍レギュラーメンバーで
わたしを面白がって可愛がってもらっていたことだった。
私も先輩達の振る舞いをよくも悪くも全て真似していた。
高校1年の1学期までは真面目に学校に行っていたが2学期からは
サボり始めた。夕方制服に着替えてサッカーに行く。
髪型はアイパー。先輩の真似をしてイキっていた。
寮の先輩達はレギュラーで中核メンバーなので
ほかのサッカーが上手い同学年よりグランドでも呼んでもらったり
話す機会が多かった。
知らないやつより知ってるやつ。
がむしゃらだけどサッカーは下手(というかサッカーを知らない)
そんな感じだったと思う。
本物のサッカーに触れてどんどん吸収することができた。
1年生の夏休みだったか1軍は強化合宿することになった。
そこに1年生も3名選ばれた。次の世代にも経験を積ませるが目的だったのだと思う。
一人は全国少年サッカー大会でベストイレブン
もう一人も中学時代に全国大会に出場したメンバー
あともう一人は、まさかのわたしだった。
周りの1年生も驚いてざわついていたが自分自身が一番驚いていた。
寮の先輩が監督に推薦してくれていた。
(無論実績ないのでマネージャー的役割)
そうして1軍の練習に帯同することができた。夜練習が終わり先輩方の練習着を洗濯し近所のコインランドリーまで乾燥させにいく。
夜戻ってから先輩の枕元にひとつづつ畳んで置いておく。朝5時から起床し夜遅くまで練習する。
地獄だった。
疲労からか脚も軽症の肉離れになっていたがこの機会を逃す訳にはいかない。意地で食らいついた。
その結果、徐々に他の先輩方や監督からも顔と名前を覚えていってもらうことができサッカー部での居場所ができるようになっていった。
2年生になり1軍の中にわたしは居た。
転機は監督が変わったことだった。
大塚 達夫監督になった。
元サッカー日本代表で筑波大から実業団(Jリーグの前身)
現役引退後、単身ブラジルに渡りコーチを学んできた本物だった。
どんな経緯でウチ(長崎日大)に入ったのかは分からなかったが
すごい人が来たという感じでざわめきたっていた。
大塚監督は柔和な印象でニコニコしている方だった。
しかしサッカーに関してはやはり熱かった。
本気のプレーをしないと容赦なく注文をつける。妥協しない。
先生はセレソン94を目指していた。ブラジル代表だ。
よくブラジル国内での代表試合ビデオを見せてくれてプレーを説明してくれた。実況はポルトガル語、情熱的でゴールの雄叫び。
初めて見る世界だった。
私のポジションは右サイドバック。
ディフェンス(守備)だがセレソン94ではオフェンス(攻撃)も積極的に参加する。カフー選手だった。
守備なのに攻撃もできる!目から鱗だった。
たまに監督も一緒にプレーをしていたが半端なかった。
走力も誰も追いつけない。高校生相手でもぶっちぎり。
その年すごい出来事が起こった。
前年全国サッカー選手権で優勝した国見高校に中国選抜(全中国ではないと思うが)が長崎遠征に来て試合を行うという。しかも国見高校だけではなく長崎で二番目に強い長崎日大とも試合を組んでいるらしい。
数日後
中国選抜が長崎日大のグランドに来た。
大塚監督は国際試合の経験もある。豊富にあった。
視聴覚室で試合前ミーティングが行われた。
国と国同士の戦いではプレーに対して「覚悟」が必要だと熱く語っていたと記憶している。特に球際にそれがでる。と言っていた。
試合開始。一進一退
試合途中、監督から呼ばれた。
途中出場だがまさかの国際試合デビューだ。驚いた。
無我夢中でプレーした。
監督が言っていた「球際」には強い意志を込めてくらいついた。
この試合をきっかけにわたしはレギュラーに定着した。
2年生でレギュラーになったのは3人しかいなかった。
大塚監督にはどう映ったのだろう。
でも評価してくれたんだと思う。
高校2年の夏
夏の高校総合体育大会、決勝の舞台にいた。
国見高校との決勝戦。
NHK長崎でも放映されたし全校生徒応援もあった。
島の中でも盛り上がったらしい。
高校サッカー時代のピークだったかも知れない。
1−0で敗れた。準優勝。
達成感はあったが、これ以降夏も冬も決勝の舞台に立つことはなかった。
幽霊生徒
自慢ではないが学校には全然行っていない
勉強する気もない。
ついていけてないので勉強が面白くない。
高校3年テストではカンニングも日常茶飯事
前席に仲良いサッカー部メンバーを配置し答案用紙を終了15分前くらいにすり替えるのだ(私のが白紙に近いのでそいつにとっては地獄)
そんな感じでテストも授業をサボるのもカッコつけていたのかもしれない。
担任からもあきられていた。
たまに学校で会うとムカついたのか鉄拳制裁されていた(マジパンチ)
恋もした。遊びまくったし青春を満喫した。
3年になるとみんな進路について真剣に考えていたと思う。
わたしは特に何をやりたいとか夢や希望なんてなかった。
誰ともそんな真剣な話をしていなかった。
夢はプロサッカー選手。いつしか自分で叶わない線引きしていたのかも知れない。
大学進学は諦めていた。親にも金銭面で厳しいことを伝えられていたし
サッカーの推薦も3年時の実績がなく厳しめ。
周りから進路を聞かれれば「プロサーファーか吉本芸人になる」と馬鹿なことをほざいていた。
親も見かねてなのか、親戚などに相談したんだと思う。
親戚が住んでいる大阪に行って働くことにした。ただしアルバイト。
楽しく充実した高校生活が終わりを迎えていた。
そうこうしていたら卒業を迎えた。
高卒としての社会人生活
大阪での生活
このあたりから見える景色が「モノクローム」になる。
単色で色がない。今見える世界は心が映し出した世界。
あまりに社会を知らなすぎた。
大人ぶった18歳はあまりに無力で無知だった。
大阪は関目高殿駅近くに住んだ。
親戚も近くに住んでいたのでたまにご飯食べたり遊んだりしていた。
紹介された仕事場は東大阪にあった。
関目からは谷町線で難波まで行き近鉄線に乗り換えて1時間掛からないくらいだったが朝夕の通勤ラッシュに気持ちも萎えた。
東大阪にある会社は輸入絨毯商社だった。そこの1階作業場があって
毎日ひたすら絨毯を梱包する作業をしていた。
作業場は室内だが薄暗かった。
そこにいるのは謎のマッチョ兄さんと中国人と大学生の三人だけだった。
すぐに打ち解けた様に思う。みんな優しかった。
特に大学生の先輩はバイクで来るし、色々と連れて行ってくれたし遊びに関してオシャレだった。自宅で仲の良い友人にも紹介してくれた。
ドレッドヘヤーのラスタマンやギャルお姉さんたち
ぶっ飛んだ人だったような気がする。
ただ社会人生活はキツかった。
なんでも一人でこなすことに限界を感じた。
何か虚しさを感じた。
誰からも注目されない。自分の世界はこれしかない。
大阪市阿倍野にある辻調理師専門学校にサッカー部時代のメンバーが二人いたのでたまに遊んだ。
でも専門学生と社会人は違う。
同年代の友人が欲しかったが会話が合わない。
共通の話題がないと輪に入れない。
大阪生活は8ヶ月で終わる。
耐えきれなくなって親が住んでいた福岡市に戻ることにした。逃げ帰った。
福岡
福岡に帰っても同じだった。九州の方が大学生活を満喫している
高校時代の友達がいた。みんな煌びやかに学生生活を満喫していた。
どこに行こうがこの虚しさが付き纏っていた。
熱中できるものがなかった様に思う。ただただ転がり落ちていく感覚。
居酒屋のバイト、引越しのバイト、鳶の手伝い、訪問販売の営業。
酒屋の配達。どれも長続きしなかった。楽しくない。
社会とは我慢しかないのかと感じた。
高校と社会との落差。深い溝。
もうダメだと思った。
社会のおちこぼれ
仕事も転々、金銭的にも自立しない息子を見かねて母親から
自衛隊を勧められた。
父親が昔陸上自衛隊に勤めていて、体を動かしながら(サッカーなど)
仕事ができて給与をもらえるので受けてみたらどうかと。
しかも任期もあって(陸上3年期、航空海上2年期)任期満了で退職金も出るという。
選択肢はなかった。
春日市にある自衛隊基地で試験を受けた。
体育館にパイプ椅子が並べられていた。
試験会場にはいわゆる社会からはみ出された人たちが目立っていた
金ネックレスに紫のスーツとか絵に描いた様な人が見受けられた。
冷めた目で見ていた。
自衛隊生活
7月下旬。通知が届いた。
「合格。航空自衛隊への入隊が認められた」
冷めていたのに心の中ではホッとした。
そこから家を引き払う準備などを行い、8月初旬に自衛隊地連の方が迎えにきた。福岡から山口防府まで車で2時間30分ほど
私の他に2人が乗車していた。車内で会話はなかった。
真っ青な夏の空。入道雲と高速道路からの景色
まるでドナドナの曲の様に荷馬車に揺られ売られる前の子牛のようだ。
輸送されていくとことん心細くなった。
防府南基地に着いた。あまり記憶が定かではない。
部屋に案内された。集団生活なので5〜6名の簡易ベットとロッカーがある部屋だ。荷物を整理していると真っ黒に日焼けした自衛隊の制服を着た男が来た。班長という学校の担任みたいな教育担当だった。
田中角栄を黒光りした様な風格、ビビり上がった。
班長は笑顔で白い歯を見せながら言った。
「ちゃんと鍛えなおしてやるからな」
それからの3ヶ月は地獄の様な天国の様な生活だった。
入隊、訓練の日々、そして卒業
6時に起床ラッパ、起床して寝具をたたみ、外に集合6時5分点呼
上半身は裸。全員で掛け声ながら外周を2kmほど走る。
11月の寒い時も変わらない。外に集合、息が白い。
終えるとみんな体から湯気が出ていた。
その後着替えて朝食に
朝食を摂り、8:15から課業が始まる。1時間の昼食時間を挟んで、17:00まで訓練は続きその後夕食を摂り、22:00に消灯。
規則正しい生活。無駄な情報は一切入らない(テレビもない)
携帯も制限あり。なので彼女とは手紙のやりとりだったが次第に文通も減ってきた。大学生になったばかりと自衛隊にいる男釣り合うはずもない。
自分から別れを伝えた。
厳しい訓練が続いたが男同士だったので乗り越えれた。
同じ境遇で同じ体験をすることで絆が結ばれて言った。
11週間の教育課程が終わり無事に九州に帰れると思った。
「任命。航空自衛隊岐阜基地での消防隊勤務を命ずる」
馬鹿になれるやつは強い
岐阜県各務原市に航空自衛隊岐阜基地はある。
初めて岐阜の駅に降り立った時も冬だったし心もとなかった。
その後4年ほど勤務するのだけど、防府南基地にいた頃に大隊長が言っていた言葉が忘れられない(大隊長も30代くらいだった様な気がする)
そのころは毎日朝から夕方まで訓練。
銃を掲げて長い距離走ったり、匍匐前進したりドブ川の中を行軍したり厳しい訓練が続いた。
くたくたになってみんなが集合した時に言った。
「みな訓練はきついだろう。誰がこんなことが起きると想像する。
日本国民誰も思ってないぞ。
銃を掲げてドブ川を進みいざという時に備えている。
こんな有事がまさか起こるわけないと思うだろ。バカバカしいだろう。
だがな、誰かが馬鹿になってやらないと守れないんだよ。国も愛する人も。
馬鹿は強いぞ。馬鹿になれるやつは強い。
だから俺はおまえたちを誇りに思う。」
鼓舞されたその言葉が刺さった。
映画のワンシーンの様に脳裏に残っている。
馬鹿になれるほどやりきれることの強さなんだと思う。
この学びは大きいと今だに思う。
第二章 転機
「リクルート」との出会い
高校卒業して社会に出てからいろんな経験をした。
全て学びであり成長の過程で必要な糧だと思っている。
18歳で社会に出て様々な仕事
中国絨毯の梱包作業や飲食店、現場肉体労働、夜はクラブのボーイ
無知で本当に苦労した。
当時は「今の現状を打開したい。」「絶対に成功してやる」そんな
鬱屈した自分や社会への怒りのエネルギーが原動力だった。
自衛隊は年功序列の世界だし、防衛ということは規律に厳しい。こうあるべきが強い世界で考え方にギャップを感じていた。ただ岐阜基地のサッカー強化選手になっていて昼まで仕事をすれば午後はサッカーだけだった。
まるでプロの様な生活だ。楽しかったがもっと挑戦してみたかった。
『一度きりの人生、挑戦して生きたい』
4年目を迎えた時に自衛隊を退官した。
九州福岡に戻った。
あるときB-ingという求人誌で「株式会社リクルートの営業募集」を見つけました。内容はリクルート新規事業(求人誌)
2ページに渡るその広告に惹かれた。
「まだ、ここにない出会い」 まさにその通りだった。
江副浩正氏が作り上げた会社「リクルート」
魅力に溢れていた。
わたしの人生の指針にしている言葉がある。機会は自ら掴み取る。
この言葉の持つ力強さ。いつも励まされている。
リクルートでの求人誌営業は
『人』が『働く』を選択する機会を提供する。面白さを感じた。
わたしも高卒で働くことにはたくさん苦労した。
高校卒業して情報をなく、社会という波の上で溺れかけていた自分。
2004年の年初め、根拠のない自信と使命感を持って応募した。
面接していただいた上司は男らしさに溢れたマネージャーだった。
私は25歳になっていた。
経歴の「自衛隊」が気に入ったみたいだった。
「自分が組織は軍隊みたいにしたかった。」
規律というより全員で突撃みたいな。そんなノリ。
創刊したばかりだったので勢いが必要だと感じたのだろう。
キャラ的に面白いやつと興味を持ってもらった。
後日、まさかの内定だった。
株式会社リクルートで働けることができる。
当時リクルートでは『タウンワーク』というフリーペーパーの求人情報誌を
地方展開で始めようとしていました。
福岡は地方都市版で第一号だった。
事業責任者は平尾勇司さん。
当時赤字事業だったHot Pepperを創刊から4年で売り上げ300億円、営業利益100億円の事業にまで成長させた優れたビジネスマンでした。その平尾さんが次なる成長を託されたタウンワーク事業。
先人のたゆまぬ努力の上で、わたしは機会をえることができ入社を決めた。
それから人材サービス(領域)営業は17年目になります。
(第二章リクルート時代はまた詳しく書きたいと思います)
山の大きさに気づいて怖くなった
40歳になろうとしていました。
年収も立場も右肩上がり、高卒では上出来かと思っていた。
営業組織マネージャー。通期全社No1を5年連続受賞。
順風満帆。とは言えず自分の描いた『人生』とは違った様に感じていた。
人生の充実感がない。だけどいつもの日常生活に飲まれて変化を怖がっていたと思う。行動を起こさない中でも時間だけは進む
気づくと年齢は自分という山の頂きに立っていて、周りの山(友人や知り合い)の大きさや稜線が見えるまでになっていた。
そして40歳は自分という山の大きさを感じることができる年齢。
きっと、40歳はそんなお年頃
見ていない世界に飛び出したい気持ちになりました。
人生という山の降り方はもっと自分らしくいたいと感じました。
転機が訪れたのは2019年。
先輩の経営者とビジネスで数百万の売り上げをつくることができました。
先輩から紹介してもらい、経営塾へ入塾しました。
生まれて初めて自分に投資をしました。
私は”コーチング”という仕事で独立したいと考えるようになっていた。
そんなきっかけを掴むことができたのが経営塾への自己投資だった。
人材領域(業界)に長く働いていて、人により興味を持ったんだと思う。
自分の人生にも当てはまるが機会があれば人は変われると信じていたからこそ人に寄り添うことができる”コーチング” に惹かれた。
経営塾はとにかく枠外、規格外、変人の経営者が多かった。
熱量が高くて素直に表現できる魅力的な経営者の方々に出会えた。
サラリーマンの世界では味わえない世界でした。
大人になるに連れて権威や役割を演じる「真面目の型」にハマろうとしている、そんな自分にも気築き自分の在り方を見つめ直そうと強く思いました。
それは「自己内省 」の機会でした。
自己投資に数百万円かけました。自己投資できる自分が嬉しかった。
(ここも今後詳しく書きたいと思います)
『ライフコーチング』との出会い
そして辿り着いた『ライフコーチ 』としての生き方。
メンターはアラン・コーエン氏。この出会いは人生でとても大きいです。
人に寄り添い・伴走していきたいと強く感じました。
今まで挑戦してこなかったことに向き合っていきたいと思います。
概要にも記載しましたが、自己内省の機会として丁寧に心の感情などを言葉に綴って前向きに取り組みたいと思います。
夢を叶えて在る自分自身へ贈る。
2021.3.21
2022.7.28追記 2022.12.14追記 2023.1.18 追記
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