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「廃藩置県とポスト・グローバリズム」という話

突然ですが、あなたは、"日本人"はいつ誕生したと思いますか?
「えっ?人類が旧石器時代に日本列島に移動してきた時に誕生したんでしょ」と、お考えの人も多いと思います。
しかし、実際は違います。
この"日本人"という概念は明治期につくられた"虚構"なのです。
恐らく、勘の良い人は、この「虚構」という言葉でユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を思い浮かべたと思います。
今回は、この国民という虚構について、『サピエンス全史』ともう一冊、『共同幻想論』を踏まえながら考えたいと思います。
さらに、グローバル化した今、国民国家の未来はどうなるのか、国同士の戦争を無くし、世界平和は実現できるのかについても話したいと思います。
そのために、まず、"日本人"という概念について考えてみましょう。

日本人とは何か
オリンピックで日本人の選手が活躍したら、普段スポーツに興味がない人でも嬉しく感じる人は多いと思います。
逆に、海外で日本人が犯罪を犯して逮捕された場合、恥ずかしく感じる人も多いでしょう。
これは、私達の中にある「自分は日本人だ」というアイデンティティに共鳴しているからです。
しかし、そもそも、日本人とは何を指す言葉なのでしょうか?
「日本人は真面目だ」や「日本人は集団的だ」というような言説を聞いたことがある人は多いと思います。
しかし、日本人にも真面目でない人はいますし、集団的でない人もいるはずなのに、私達は当たり前のように「日本人とは○○である」 という言葉を使っています。
この抽象的な"日本人"という言葉について、国民国家の形成という観点から考えてみましょう。

国民国家は虚構
私達は「日本人」や「日本」は存在するものだと信じていますが、そうした国民国家は「虚構」だと言われています。
例えば、歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリの著書『サピエンス全史』では、我々、ホモサピエンスは虚構を作りだすことで、大きな群れを作ることが出来たと述べられています。
どういうことでしょうか。
ハラリによると、もともと人類は私達ホモサピエンス以外にも居たけれど、そうした他の人類を滅ぼして、生き残ったのが我々ホモサピエンスだそうです。
ホモサピエンスが生き残った理由は、我々ホモサピエンスだけが虚構をつくりだせたからだそうです。
ホモサピエンス以外の人類は、実際に存在するもの(例えば、力の強い者)をリーダーとして群れを作ることは出来たけれど、そうした存在するものを中心とした群れは大きくなれませんでした。
力の強い者が群れを支配するというやり方では、闘争ばかりで安定した群れを作れなかったからです。
それに対し、ホモサピエンスは、神のような目には見えない虚構をつくりだすことで、虚構を中心に大きな群れをつくりだせたと言います。
ホモサピエンスだけが大きな群れをつくりだせた結果、数の力で他の人類を滅ぼして、生き残れたというのが『サピエンス全史』で述べられていることです。
そうしたホモサピエンスが作りだした虚構の中に国民国家があるのだとハラリは言います。

(https://blog.goo.ne.jp/lemonwater2017/e/498ec9e344a7f7767211649f1811a263より)

次に、思想家である吉本隆明の『共同幻想論』から国民国家の形成について考えてみましょう。
吉本隆明は『共同幻想論』の中で、国家は3つの幻想から誕生したと述べています。
1つは男女の間にある「エロス的関係」。
2つは「時間」。
そして、最後はタナトス、つまり「死」です。
この3つの幻想から国家は誕生したと、吉本隆明は答えています。
どういうことでしょう。
「エロス的関係」とは、例えば、男女が婚姻して夫婦になると、子供が産まれ、その産まれた子供が育って大人になると独立し、自宅を出て、また新たな家庭をつくる、というように国家は男女の「エロス的関係」によって拡大していったものだと吉本は述べています。
次に、「時間」とは、男女の「エロス的関係」にある時間、つまり、女性が子供を産み、人間が老いて死に、次の世代に代替される時間と、農耕社会における時間、すなわち、穀物が枯死する代わりに種を残して、新たな穀物が育つという時間、その2つの時間の「差異」や「矛盾」を乗り越える手段として国家という共同幻想が生まれたと吉本は言います。
最後に、「死」とは、共同体の関係の中で生まれた幻想で、「死」への幻想が共有できる共同体が国家になると述べています。
例えば、「死んだあとには天国(あるいは地獄)に行く」や「神様の祟りで死ぬ」など、「死」に対する幻想は、現代でもありますが、そうした幻想が共有できるようになった結果、国家が生まれたと吉本は言います。
つまり、吉本によれば、「エロス的関係」「時間」「死」という3つの幻想から国家という共同幻想が誕生したと述べています。

(https://www.amazon.co.jp/dp/4044005761/ref=cm_sw_r_cp_apa_i_YbunFbTWY2383より)


『サピエンス全史』と『共同幻想論』では、どちらも共通して、国民国家は「幻想」や「虚構」という実際には存在しないものとされています。
では、「日本」や「日本人」という虚構(あるいは幻想)はどのように誕生したのか、次に考えてみましょう。

日本人という概念の誕生
先述しましたが、「日本」や「日本人」という虚構が誕生したのは、明治期とされています。
明治のはじめ、日本列島に住んでいた人達は、自分を「日本人」とは思っておらず、「薩摩藩士」「長州藩士 」といったアイデンティティしかありませんでした。
では、なぜ、明治期に「日本」や「日本人」という虚構が必要になったのでしょう。
その理由は、江戸時代末期、西洋列強国の脅威が高まっていたからだと考えられます。
当時、中国がアヘン戦争でイギリスという西洋の国に敗れたことは日本中に衝撃を与えました。
なぜなら、当時、中国は世界最強の国と考えられていたからです。
そんな最強の国、中国がいきなり全く知らないイギリスという国に負けたと知ったら、日本も侵略されるかも知れない、と恐怖を感じるのも無理はないでしょう。
さらに、イギリス以外にも黒船来航など欧米の脅威は日本に迫っていました。
そんな中、ある戦争が起きます。
下関戦争です。

(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89より)


下関戦争は、長州藩がアメリカ、フランス、オランダの艦船に砲撃をしたことがきっかけで起きました。
なぜ、砲撃したのか経緯を説明すると長くなるので簡潔にいうと、「日本の鎖国を守るために力ずくで外国を追い払おう」という譲位活動の一環としてアメリカ、フランス、オランダの艦船に砲撃したのだと言われています。
当然、砲撃されたアメリカ、フランス、オランダは、長州藩に激怒し、イギリスを含む、4カ国VS長州藩という戦争に発展していきます。
戦争の結果は火を見るよりも明らかでした。
長州藩の惨敗です。
無理もありません。
だって、長州藩は現代で言うところの山口県ですからね。
長州藩(山口県)VSアメリカ、イギリス、フランス、オランダなんて勝ちようがありませんでした。
この戦争で判明したことは、「"藩"という共同体では西洋列強国には勝てない」ということでした。
では、どうすれば良いのでしょうか。
"藩"という共同体で西洋列強国に勝てないならば、"藩"よりも大きな共同体をつくれば良いのです。
そして、全ての藩をまとめた、更に大きな共同体の"国"、つまり"日本"という概念が誕生しました。
そして、日本列島に住んでいる人達に「日本人」というアイデンティティを持たせるために、廃藩置県が行われました。
幕藩体制下では基本的に、他の藩と交流が出来なかったため、下関戦争のような事件が起きても「自分は長州藩士ではないから関係ない」という人が多かったのですが、廃藩置県により、他の県と盛んに交流が出来るようになったことによって、「自分達は同じ日本人だ」「山口県(長州藩)が攻撃された場合は、同じ日本人として協力しなくては」と言うような意識に切り替わったと考えられます。
この話は、現代でも通じます。
例えば、東日本大震災で、大きな被害を受けた一部の県に対して、「自分達には関係ない」とは言わず、「がんばろう日本」と、同じ日本人としての当事者意識を持っている人が多かったのも、都道府県制度があったからだと考えられます。
もし、藩制度だったならば、日本人としてのアイデンティティも持っておらず、「がんばろう日本」とはならなかったでしょう。

ポスト・グローバリズムと世界平和
さて、「日本」や「日本人」という国民国家の形成について話が長くなりましたが、日本史で起きた廃藩置県に似た現象が世界でも起きています。
それは何かというと、グローバリズムです。

(http://a.msn.com/01/ja-jp/BB14vwNi?ocid=stより)


廃藩置県では、藩制度をやめ、県制度にすることで、人や物の交流が盛んになりました。
これはグローバリズムでも同じで、グローバル化したことにより、国同士で、人や物の交流が盛んになっています。
私は、このグローバル化こそ、世界平和を実現する希望になるのではないかと考えています。
何故かというと、廃藩置県によって「同じ日本人同士で争わず協力しよう」という意識に切り替わりましたが、これと同じ現象がポスト・グローバリズムでも起きると考えているからです。
世界がグローバリズムによって、一つの共同体になることで、「同じ世界市民同士で争わず協力しよう」という、コスモポリタニズム的なアイデンティティが生まれ、世界平和が実現出来るのではないかと考えたからです。

右派・左派による反グローバリズム論
しかし、右派、左派ともに「グローバリズムには反対」という意見があります。
右派は、差別的な反グローバリズム論が多く、左派は「経済格差の原因だから」という理由で反グローバリズム論を唱えている人がいます。
こうした反グローバリズム派の右派・左派の意見は本当に正しいのでしょうか。
右派の差別的な反グローバリズム論は、そもそも論外だと思います。特定の人種が虐げられているような差別は認められないからです。
左派の「経済格差の原因だから」という反グローバリズム論もおかしいです。
彼ら左派が経済格差の原因と指摘しているものの大半は、グローバリズムの問題ではなく、新自由主義の問題だからです。
彼ら左派は、よく新自由主義とグローバリズムをごちゃ混ぜにして、経済格差を批判しますが、グローバリズムと新自由主義は全然違うものです。
それに、そもそも経済格差そのものは、問題ではないので、彼ら左派のグローバリズムへの批判は、本質から間違えています。

まとめ
勿論、コスモポリタニズム的なアイデンティティを生み出すことは容易ではないと思います。
しかし、グローバル化によって、多様な人種が交流できるようになった現代社会を見ていると不可能とも思えません。
かつて、政治学者のベネディクト・アンダーソンは国民国家を「想像の共同体」と捉えました。
この国民国家という「想像の共同体」によって、多くの人が戦争をすることもありましたが、むしろ、この「想像の共同体」を平和のためにも利用できるのではないでしょうか。
ポスト・グローバリズムでは、「世界市民」という新たなアイデンティティが生まれ、世界平和を実現できるのかもしれません。

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