見出し画像

意識高い系ってなによ

私は宝塚が好きで、世界史に興味を持ち、
通っていた予備校の影響を受けて政治に興味を持ち、
大学で専攻していた社会学の影響でジェンダーについて興味を持つようになった。興味を持つと言っても、別にめちゃくちゃ詳しいわけではない。突っ込んだ質問をされたらワタワタしてしまう。

ただ、そういうことに興味関心があると言うのが、怖かった。
だって周りの友達そう言う話全くしないんだもん。予備校時代は教えてくれていた先生たちの影響を受け、次の選挙どうなるんだろうねーとか、先生の今日の外交の話面白かったね!みたいな話をしていた(気がする)。
けど、大学に入ってからはそう言う話を周りでする人がいないので、日常では話さなくなった。そう言うことに興味関心があるというと、「意識高い系」と思われ、少し距離を置かれそうで怖かったのだ。

ただ、鳥取に来て付き合う人が変わり、「「意識高い系」って思われたらやだな」
って思う気持ちが変わってきた。
なんていうか、政治に関心があったり、町おこしに関心があったり、有機農業や環境保全に関心があるのが、みんな全部ではないけど、各々興味関心あるものに対してはそれに対する理解が日常なのだ。
自分が詳しくないジャンルでも、誰かがそのテーマの話を始めたら、「意識高い系だね」って遮らずに、みんな関心を持って話を聞く。その姿勢が鳥取に来て素敵だなって思ったことの一つ。

また、思い切ってジェンダーに関心があると話したら、それならこのサイト見たことある?とか、こういう人いるらしいよ、とかみんな当たり前に受け入れてくれたのだ。(もちろん鳥取にもそうじゃない人はいる)
なんかそういう様子を見ていて、私はこれまで「意識高い系」って思われるのが怖くて心の中では色々考えても言えなかったけど、もしかしてこれそんな内に秘めてばかりでなくてもいいのでは?と思えるようになってきた。

「意識高い系」ってどういうことなんだろう

じゃあそこから「意識高い系」ってなんなんだろうっていうことを最近考えるようになった。
「意識高い系」というのはその話題を遠ざけるのに便利な言葉であると私は感じる。
自分にとって遠い存在の話題を自分の無関心を許してくれる言葉にしているのではないだろうか。
私は自分にとって少し離れた問題でも、自分に全く関係のない問題はないと思っている。目を向けなければ、社会問題を考えなくても暮らせる社会であるように見えている社会なのよね。

「意識高い系だね」っていう人は「私はその問題について知りません」って言っているのと同じだなぁって最近思う。自分にとって遠いテーマだとしても、その言葉を使うことにより自分から遠ざけてしまうのは勿体無いなって。また、その言葉を使うことによりその場にいる人にもあれは遠いテーマだよね、というのを強制する空気を作ってしまう。

鳥取では、みんな興味関心が違うのは当たり前だし、目の前のことに全力で楽しんでいる。その中で重なる部分があったら一緒に盛り上がるし、重ならない部分があるのならそこは各々。

「意識高い系だね」って言葉が苦手な理由がわかり、そんなに怯えなくてもいいんだなって思えるようになったなって話でした。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?