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ミスから世界の優しさに気づいた

仕事でミスをした。

出なくてはいけない会議の予定を失念し、
他の仕事で現場に出てしまっていた。

それに気づいたのは、
会議が開始してから30分後。



現場の自由時間に呑気にスマホを眺めてた時、会議についてのメールを見つけて思い出した。


「もう、会議もう始まってるじゃん…!!」



早くなる鼓動。
冷静を装うも、立ったり座ったりと
明らかに落ち着きがなくなる。


身体は動いてしまうのに、
脳はしゃがんでしまって、働くことを拒む。
硬直していて、思考する余白が無い。


とりあえず関係者に連絡するか?
思いついた先輩にLINEを打ち始めるも、
送信前にその先輩は会議の参加者ではないことに気づく。

そもそも私は、関係者の連絡先なんざ
一つも知らないことにも気づいた。



会社に戻って会議に出るか?
いや、ここから戻るには30分はかかる。
間に合う可能性は低い。


このまま普通に過ごして、後で連絡するか?
そう思い、一瞬椅子に座るも、
座ってなんていられなかった。


居ても立っても居られないとは、
まさにこのことだった。

どうせ落ち着かないから、
会議が終わるまでに参加できることに賭けて、
急いで車で会社に戻ることにした。



そのときの私の運転は、速くて、それでいて「このタイミングで事故に遭うのは絶対に違う」という念のもと、
力強い慎重さも兼ね備えていた。
破水した妻を車で運ぶ夫のそれだ。多分。



着くと、会議は終わった後だったようで、
会議室内は撤収されていた。作戦失敗。


とりあえず、上司に謝ろうと思った。
ただ、同じ部署の方ではないため、
どう謝るか一瞬考えた。


当然、直接会って謝罪をした方が誠意が伝わるとは思われるが、
電話でサラッと済ませるなら、そっちのが楽な気もした。

数秒迷った挙句、
腹を括って直接謝罪に伺うことにした。


ここまでの判断の連続は、
停止している脳なりに頑張った証であり、
感情は置いてけぼりだった。

そもそも緊急時は、
感情を噛み締めている場合では無い。
学生時代に年一くらいで避難訓練やっていたくせに、そのことを今日まで知らなかった。



勇気を持って、上司の所へ向かった。

私「すみません…!
本日の会議なのですが、失念しておりました。
申し訳ございませんでした…。」

上司「あぁ!今メールを送ろうと思っていたところだよ。忘れちゃっていたんだね。」


怒られたり、嫌味を言われたりすることは一切なかった。
会議でのことを軽く確認し、事は終わった。



上司、優しいなと思った。

怒られてもおかしくないのに、怒らないの優しいなと思った。


そのとき、世界は結構優しさでできているように思った。


思い起こせば、
人とぶつかりそうになった時、道を譲ってくれたあの人。
募金箱に溜まっている小銭。
ティッシュ配りの人のティッシュを受け取っている人。
狭い道で対向車が来たときに、停車する車。


みんな優しい。
譲ってくれたり、折れてくれたり、
ちょっとだけ自分を削って差し出してくれていた。アンパンマンみたいだ。



ポーズで軽い会釈したりなんかして、
感謝しているフリして優しさの恩恵を
のうのうと享受してきたけど、
そんなの事象に会釈しているだけで、
その大元にある優しさに目を向けていただろうか。

私たちは極限状態になってやっと、その優しさに気づいたりする。


見過ごしてしまうような、そんな小さな優しさたちがあったからこそ、世界は回っていたのではないか。


私も優しさの一部になりたいと思った。
そんな今日この頃。

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