「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」が聴きたくて
ワタナベくんがミドリちゃんに言ったこれが、ハタチの私の指針になった。
……なにそれ、どのくらい?
私もいつか誰かを好きになったら、こんな『へんてこりん』なセリフ、思いついちゃうのかな。
村上春樹の、ノルウェイの森。埃っぽくて、オレンジの西日が眩しい大講義室で読んだ上下文庫本は、クリスマスみたいに赤と緑の装丁を纏っていた。
恋は素敵だけど、嫌い。
誰かを好きになると、自分を嫌いになる。好きになった人に好かれるように、変わろうとする自分が滑稽で嫌い。
好きな人の前で、カードを並べて考える。次はこれ、言ったら困るかな。どう思われるだろ、うざい?引かれる? 服装は?髪型は?メイクは?そんな風に次から次へと慎重にカードを出していくと、最後はゲームに負けている。
それが私にとっての恋で、それでもゲームの最中はそれなりに楽しい。それが人を「好き」になることだと思っていた。憧れの誰かに、自分が近づいていくプロセス。相手の好きなものを知りたい。相手の嫌いなものを知りたい。好みの女の子になりたい。そんな、あらかじめ存在するモデルを目指して自分をカスタマイズしていくプロセスが、きっと恋だ。
§
ふうくんとは、気づくと毎日一緒にご飯を食べていた。
毎日、「明日は何食べる?」と言いながら、会って、ご飯を食べて、解散、会って、ご飯を食べて、解散。
私は微塵も、ふうくんが何を好きで何を嫌いか、好みの女がショートカットかロングヘアーか、やせ型が好きかぽっちゃりが好きかなんて、気にならなかった。ただ、一緒にご飯を食べる時間が好きだっただけ。だからそれは、恋じゃない。ふうくんは、次の手をカードで決めて、好きになってもらうために必死になるような相手じゃない。
ふうくんが初めて私の暮らすワンルームにご飯を食べに来る予定だった日、私はふうくんにメッセージを送った。
『来るときに電池とトイレットペーパー買ってきてちょうだい』
そしてふうくんは、電池とトイレットペーパーを持って私の部屋にやってきた。
そのトイレットペーパーが、あろうことかシングル巻きだった。私はダブルが良かったのに!
「ダブルが良かった」「買う前に聞いてくれればよかったのに」と理不尽なわがままを並べる私に、ふうくんは笑ってこう言った。
「いいよ、ちょうどうちもペーパー無かったから、これ俺が持って帰るよ。酒のつまみも買いたいし、もう一回スーパー行ってくるね」
思えば、赤の他人にこんなわがままを言っていた自分に驚いた。私、こんなこときっと家族にだって言えない。そもそも、誰かに買い物なんて頼まないのに。
その瞬間にわたしは、きっと、ふうくんと2人で一生を過ごしていくんだと思った。
私が求めているのは単なるわがままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いながら帰ってきて「はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ」ってさしだすでしょ、すると私は「ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ」って言ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの。 -村上春樹「ノルウェイの森」
私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。「わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい?チョコレート・ムース、それともチーズ・ケーキ?」
私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの。ー村上春樹「ノルウェイの森」
ミドリちゃんはワタナベくんにそう言って、虎はバターになったんだ。
そして私はこれからきっと、きちんとふうくんを愛するんだ。
§
まったくちゃぴたは……と、ふうくんは今でもよく言う。
あの日を境に、私たちは毎日一緒にご飯を食べるだけじゃなく、毎日シングルベッドでぎゅうぎゅうで寝る生活を始めた。21歳のあの日。私はふうくんに恋をしていなかったけど、ふうくんはしっかり私に恋をしていた。
それから7年、ふうくんと私は夫婦になって、私は今でもわがままを言い続けている。許されると知っている、完璧なわがままを。
だからそのぶん、わたしもきちんとふうくんを愛す。
それは恋を通らなかった。一緒にご飯を食べるだけの時間は、始めから愛だったんだ。
籍を入れた夏の日、八百屋で見つけたおっきなスイカを、頬に種をくっつけながら食べているふうくんに聞いてみた。
「ねえ、私のことどのくらい好き?」
「このおっきなスイカを切った途端、一瞬で種が吹き飛んじゃうくらい」
あ、この人も『へんてこりん』になっちゃったんだ。
ジャングルの虎がバターになるよりは容易いな、と、一生懸命種を吹き飛ばす男を横目にひとり、頬を緩めた。
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