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ゆめはいまもめぐりて。
年末年始、地元に帰った。高校卒業までを過ごした街。
新幹線で北へ向かうその車窓からは、トンネルをくぐるたび、視界に白の面積が増えていくのが分かる。雪が、枯れ木に花を咲かせているのだった。
駅のホームに降り立つと、お馴染みの凛と冷えた空気が身体を包むのがわかった。春夏秋冬をどれも等しくこの街で過ごしたはずなのに、この街を思い出すとき真っ先に浮かぶのは冬の記憶だ。
最高気温すら氷点下を記録することも珍しくないこの街で、寒さに奥歯を震わせながら足早に歩いた通学路。夜寝る前、凍える寒さとは分かっていながらも窓を開けて息を白くしながら見上げたカシオペア。毎年お決まりのように市街地の川や池に飛来する白鳥たち。
そして、そびえ立つ岩手山。岩手山はいつもそばにあった。実家の部屋の窓の向こうにも、通学路で見上げた景色の彼方にも、家族の日々の会話の中にも。
「今日は岩手山が綺麗に見えるよ」
「そろそろ岩手山も山開きだね」
「岩手山、初冠雪だって。そろそろ麓も降るころかしら」
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* * *
中学時代、国語の先生が授業の合間にこんなことを言っていた。
「おまえたちもいつか岩手山を見て、『ああ、いいなぁ。帰ってきたなぁ』としみじみ思う日が来るよ」
ませた子どもだった私は「岩手山の良さくらい、今でも分かってる」と心の中ではなじらんだ。
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けれど、先生のいう「しみじみ」を本当の意味で痛感したのは地元を離れてからだった。進学を機に地元を離れ、初めて帰省したときのこと。
高速バスに揺られながら、東北自動車道を北上する。都会の喧騒から離れ、景色がどんどん見慣れたものになっていくときに感じた、あのどうしようもない懐かしさ。自分の一部がそこにあるというあの感覚。
それは視界にあの堂々たる山麓のシルエットが飛び込んできた瞬間、決定的になった。
ふるさとの山に向かひていうことなし ふるさとの山はありがたきかな
教科書に載っていたこの言葉がふっと頭に浮かぶ。枕草子のように暗唱テストがあった訳でもないのに、私の脳はなぜだかこの言葉をずっと覚えていた。
* * *
地元を離れもう長い長い時間が経った。時間が経てば経つほど、あの街を懐かしく恋しく思うかと言われればそうではない。だからといって記憶のうちからどんどん霞んで消えていくわけでもない。流れ行く時間の中で、その時々に恋しくなったり思い出さなくなったり、そんなことの繰り返しだ。
それでもあの山はいつも変わらずあの街にあるのだと思うと、ただそのことが私を安心させてくれている。世界のどこにいようとも。
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ありがとうございます。いつかの帰り道に花束かポストカードでも買って帰りたいと思います。