見出し画像

「善意」という名の暴力について

 今日は、「善意」が暴力になりうる、善意「だからこそ」暴力になることに相手も自分も気づかないことがある、ということについて書こうと思う。

 とある飲み会の席。私がそれなりに面識のあるAさんと、今まであまり接点のなかったBさん、そして私の3人での会話になった。最初は雑談だったものの、会話が進むうちになんだか風向きが変わってきた。Aさんは私についてBさんに紹介しようと思ったのか、やたら私のことをBさんに語り始めた。

「季世ちゃんって、XX出身で、こんなことやってて」
「こういう性格で、こんなとこがBと似てると思うんだよねー」

 私は黙ってAさんの話を聞いていた。AさんはBさんと私をどうしたいのだろう?この会話の行き着く先はどこなんだろう?と思いながら。そしてとうとうAさんが言った。

「…だからさ、Bから季世ちゃんになんかアドバイスない?」

 一瞬、私はAさんが何を言っているのかわからなかった。アドバイス?何それ?私はAさんにもBさんにもそんなことは求めていない。なんだってそんなことを私に「してあげよう」とするのだろう?

 そんな私の混乱とはよそに、Bさんはそれほど親しくもない私について、言葉をそれなりに選びながらもBさんの思ったことを滔々と語り始めた。

 何、この状況?

 私は混乱しながらも、ひとまずBさんの話を聞いた。自分が人からどう見えるのかだとか、Bさんがどういう考えを持っているのに全く興味がないわけではなかったし、「アドバイスなんか今は求めてないです」と拒絶するのもなんだか失礼のような気がしたから。

 飲み会が終わって、私は一人帰路につきながら、もやもやを解消できずにいた。Aさんの話もBさんの意見も、それなりに参考になるところはあった。だけど。もやもやしたポイントはそこじゃなかった。AさんもBさんも自分なりに良かれと思って、善意でアドバイスをくれようとしていた。悪気だとかそういうのは微塵も感じなかったし、本人たちも悪気は全くないのだろう。むしろ2人が持っていたのは「善意」だった。2人から見て、自分たちのアドバイスが必要そうに見える相手(この場合は私)に、必要なことを「してあげた」だけだったのだと思う。そんな「善意」という名のものの背後に透けて見える傲慢さに私はもやもやを感じたのだった。

 「善意」でしてくれていることなのだから、それに対して否定的なのは失礼だ。そう思って私はひとまずその場をやり過ごした。でも、別に否定的でもよかったのだと思う。この件について考えてみてたどり着いた結論が、「善意」は「よいこと」とされている分、あからさまな敵意や悪意よりタチが悪い、ということだ。よいことをしている(であろう)自分に酔ってしまい、本当に相手のためになるかどうかは実は二の次なのだ。これって相手からしてみたら、相当はた迷惑な話だ。例えるならば、本当は座ってゆっくり休んでいたい相手に対して、「座ってばかりじゃ健康によくないよ!」といって無理やり腕を掴んで引きずりながら歩かせるような感じ。

 このことは、「善意」が時に暴力的な側面も持つということを痛感した体験だった。そして、人の「善意」を「善意だから」という理由ですべて受け止める必要もないということも学んだ。「善意」だから「いいもの」であるとは限らないのだから。もちろん、世の中にある「善意」すべてを丸ごと否定するつもりはない。私の中にも私なりの「善意」はある。でも、「善意」が必ずしも相手にとっても「よいこと」になるとは限らないことを忘れずにいたいと思う。

ありがとうございます。いつかの帰り道に花束かポストカードでも買って帰りたいと思います。