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あしたはあしたの、ばあちゃんと。

母方の祖母は沖縄出身で、
幼い頃に母を亡くし、父は消息不明、
親戚の家で育ったらしい。

14歳の頃、海を渡り、
たったひとり本土に働きに出たと聞く。

当時、沖縄出身者は家を借りるのも
大変だったらしい。

そんな厳しい中、少女がひとりで
どうやって生き延びて来たのか、
詳しいことは誰も知らない。

ただ分かっているのは、

ばあちゃんの尻がそれはそれは
大きかったので、
幼かった従弟が動物園のカバを見て、
「ばあちゃん」と指さしたこと、

一人称が「わし」、二人称は「おまえ」。
世に言う「おばあちゃん像」からは
いちじるしくかけ離れていて、

魚屋のおっちゃんのようなすごみのある
声だったこと、

大きなからだにも楽ちんな、
「あっぱっぱ」を年中着ていて、
「わしは水を飲んだだけでも太るんじゃ」
が口ぐせだったこと、

「わかい頃、わしはそれはそれは
 きれかったんじゃ」
と言い張るが戦争で写真は
すっかり消失していたこと、

大家族で家計は火の車だったが、
「あしたはあしたの風が吹くんじゃ」
と、大好きな買い物に出かけたら
こどもたちが寝静まるまで帰って来ず、

目が覚めるとそれぞれの枕元にみかんやら
お人形やらのプレゼントが置かれていて、
「そんなことより、おかあちゃん、
 給食費まだやで?」と言われて
「可愛げがない」とへそを曲げていたこと、

転んで流血した母を病院に連れて行ったが、
「女の子の顔を縫うとはなにごとじゃ」
と医者を怒鳴りつけ、オロナインで
治してしまったこととか、

「胸騒ぎがする」と働いていた市場を
飛び出し、急いで家に戻るとボヤの中で
こどもたちが泣きべそをかいていたこと、

出産後、育児ノイローゼになりかけて
電話をかけた母に、
「こどもはそう簡単に死なんが、
 おまえが死にそうや。ええか、
 待っとけ。すぐ行く」
とタクシーを飛ばして来てくれた話とか、

そのままこどもを両腕に抱え、
「旦那と姑にはわしから電話する。
 文句は言わさん。
 しばらくうちで過ごせ」
と娘と孫をさらっていった話とか、

母が体調を崩すと決まって電話が鳴り、
「ばあちゃんやったら心配かけるから、
 お母さんは元気にしてるって言うてね」
と言う母の言葉どおり、鬼の直感力で、

「わしや。かあさんは元気にしとるか?」
と必ず聞かれて噓をついていたことや、

小学校にも通えなかったはずなのに、
病院の枕元に、
「ウメボシヲカッテキテクダサイ」
と教科書みたいな丁寧な字で書かれた
メモを見つけて驚いたこと、

晩年、別々の病室で過ごす祖父に
「次の世でもまた一緒になろう」
と車いすで会いに行き、指切りしたこと、

「じいさんが死んだらわしに言えよ。
 絶対に隠すなよ。わしが見送る」
と、別の病室にいる祖父のことを毎日
気にかけていた祖母は、

その日が来た時、約束通りに車いすで
祖父にお別れをきちんと言い、

「笑うてはる」

とほほ笑んだあとで、意識を失ったこと。

そして目が覚めて、
「じいさんは死んだんやな」
と言ったきり、
祖父の話はしなくなったこと。

「わしはじいさんを見送って、
 90まで生きるんじゃ」
と毎日のように言っていた祖母は、

食欲旺盛でなんでももりもり食べ、
元気に90歳を迎えると、
またぴたりと年令の話はしなくなった。

ある日、

「じいさんが迎えに来てるから、
 もう食べん」

突然そう言ってから、あれほど
大好きだったおやつもごはんも
食べなくなってしまったばあちゃんは、

「もう、すまんけど孫のことは忘れる。
 こどものことを覚えとくので
 精いっぱいじゃ」

孫のひとりであるわたしに
そう宣言してから、

大好きなじいちゃんと、
愛するこどもたちの記憶を
守り抜くことに全力を尽くす姿は、
すがすがしくてカッコ良かった。

(おう、寂しいけど、かまへんで)

孫代表として心の中で返事したわたしは、
ばあちゃんがいなくなったあとも
毎日ばあちゃんを思い出している。

ばあちゃんはいつも笑ってる。
ばあちゃんが力をくれる気がする。

母は毎朝、目が覚めるともう一度
目を閉じてばあちゃんに会いに行く。

「あの角を曲がって玄関のチャイムを
 鳴らしたら、あっぱっぱを着た
 大きいばあちゃんがドアを開けてな、

 よぉ、来たんか、って言うねん。
 それから、起きるんや」

これからもばあちゃんは、
みんなに元気を与えるために、
悩んだり迷ったりする
ひとりひとりのそばに来てくれるのだろう。

「あしたはあしたの風が吹くんじゃ!」

そう言って、今日も、明日も。

あしたもばあちゃんは、
みんなのそばにいてくれる。


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