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【読書備忘録】ルネサンスの文学から明治深刻悲惨小説集まで

 今回紹介する書籍は『八面体』以外DMMブックスで購入した電子書籍です。意図的に選択したわけではありません。公開前は偏りすぎなのが気にかかり入れ替えることも検討したのですが、例の割引で莫大な損失をもたらしたDMMブックスにありがたいようなすまないような複雑な思いを抱いているので、激励と感謝の意を込めて変更しないことに決めました。元々講談社の学術文庫・文芸文庫は好きですからね。改めましてDMMブックスさん、ありがとうございました。


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ルネサンスの文学 遍歴とパノラマ

*講談社学術文庫(2007)
*清水孝純(著)
 中世以降の西欧文学を解説するルネサンス文学の入門書。ルネサンスを彩る『ドン・キホーテ』『ガルガンチュア物語』などの世界的名作を筆頭に、新時代を象徴する名著とその歴史的背景に迫る。顔触れは多彩で、作家以外にもレオナルド・ダ・ヴィンチやモンテーニュといった偉大な存在も含まれている。それにしてもルネサンスとは何なのか。一四世紀から一六世紀までの西欧諸国で興隆したルネサンスは、古典時代の復興を目指するとともに封建制に支配されていた人間性の解放を求めた運動である、などと教科書的に説明するのは簡単だけれど、実のところルネサンスとは多義的で定義付けるのが難しい。古典時代の文化復興運動だけではなく、復興期自体をルネサンスということがある点も複雑さに拍車をかけている。そもそも人間解放という欲求は封建社会の全盛期にも存在していて、古典文化の復興運動自体はイタリア文芸復興運動以前におこなわれていたようである。それでは文学の世界には如何なる痕跡が残されているのか。中世文学からの過渡期に注目すると、中世的原理とルネサンス的思想を兼ねている『神曲』を始め、自由奔放な人間喜劇を展開させる『デカメロン』『カンタベリー物語』など、反骨精神の萌芽を読み取れる作品が発表されている。ブルクハルトのいう人間と世界の発見とは、彼の推察以上に早く達成されていたのかも知れない。



花影

*講談社文芸文庫(2006)
*大岡昇平(著)
 大岡昇平は太平洋戦争を題材とした戦争文学、フランス文学の翻訳、文芸評論などの分野で活躍。戦後派の代表格として現代に語り継がれている。その活動内容は過激で、小説の世界では睡眠薬自殺した元愛人のホステスをモデルに恋愛小説を執筆し、評論の世界では強烈な批判精神を振るって論争に明け暮れるなど、センセーショナルなのかスキャンダラスなのか判然としないところのある変わり者でもあった。その元愛人を葉子という銀座の女給に換えて、空虚な恋愛遍歴を刻ませた問題作が『花影』である。不倫を続けていた大学教師との破局をきっかけにバーに復帰した葉子は、むなしさを抱えたまま常連客の数人と肉体関係を結んでいく。けれども経理士の知人である粗暴な男とは反りが合わず、青臭さのある年下のテレビ・プロデューサーとの間柄にも早々に暗雲が立ち込める。馴れ初めは常に紋切り型であり、惰性的に築かれる関係は些細な要因で崩れてしまう。葉子は加齢とともに色褪せていく自分自身の容貌に虚無を募らせ、泥酔することで束の間の享楽に耽る日々を送るのであった。本作品には終始憂鬱な時間が流れている。それは葉子の複雑な出自と現況に加えて、売上に命をかけるバーの経営者が病を患ったり、愛人の娘が流行性脳炎で歩けなくなったり、昔は敬われていた美術評論家なのに零落してタカりになったりと、彼女を取り巻く環境自体が暗然としている点も見逃せない。美術評論家を先生と慕い続ける葉子の態度は、物語にただよう哀愁を強めている。



早わかり世界の文学 パスティーシュ読書術

*ちくま新書(2008)
*清水義範(著)
 パスティーシュは美術用語で模造品・模造画を意味し、文学でも模倣作品を意味する言葉として使われている。これだけ聞くと「パロディとおなじ意味ではないか?」と思う。けれども目的や展開に注目すると、両者は明らかに異なる技法なのだ。簡単に説明するなら、パロディは対象物の権威を剥がして滑稽な面を強調する風刺的技法で、パスティーシュは対象物を誇大化して引用のモザイクを形成する実験的技法ということになる。ブラックジョークで対象物に肉薄するか、パッチワークで対象物を別物に換えるか。こう解釈するとおなじ模倣でも属性は全然違う。パスティーシュは笑わせる方法とは限らないのだが、著者の清水義範氏は徹底的に笑わせる方に舵を切った小説家である。本書は三回の講演と、それらに付記するかたちで文学論考を添えてパスティーシュの特徴を解説している。模倣なくして発展はない。数々の世界的名作が模倣をかさねることで生まれてきた事実は、著者の主張を強く裏付けている。ミルトンの『失楽園』もワイルドの『サロメ』も『聖書』を元に書かれているし、その『聖書』にも『ギルガメシュ叙事詩』の模倣とされるエピソードがある。文学史を把握する上でパスティーシュを理解することは大事なのだと実感した。また模倣を敵視するのでもなく、模倣の歴史を揶揄するのでもなく、より面白味を深めるための工夫として好意的に捉える清水氏の語り口は終始楽しそうで、文学の堅苦しさを取り払い、親近感を深めようという意欲に溢れていて好感を抱かされる。



叫び声

*講談社文芸文庫(1990)
*大江健三郎(著)
 大江健三郎氏が『叫び声』を発表したのは二七歳のときで、後年の疑似私小説とは異なる小説世界に今更ながらも新鮮味を覚える。けれども社会に蔓延する閉塞感に焦燥と苛立ちを募らせる若者たちの、括弧で括らざるを得ない記号的で特異な人物造形と不器用な真情の発露に大江文学の礎を見ることができる。物語は「僕」の回想録という形式であり、ヨットでの大航海を夢見て仲間たちと「ジャギュア」を乗りまわす青春を謳歌していた時期と、その「黄金の青春の時」が終焉を迎えるまでの日常を綴っていく。「僕」は梅毒恐怖症の治療過程でスラヴ系アメリカ人のダリウス・セルベゾフの知遇を得ると、黒人と日系移民の混血児で「人種上の虎」を自称する虎、在日朝鮮人と日本人の混血児である呉鷹男を含む四人での共同生活を始めた。仲間はそれぞれ胸の内に「叫び声」を抱えている。同性愛者のダリウス・セルベゾフは癲癇発作に怯え、虎は人種差別の横行する現実で有閑夫人のジゴロとして生き、呉鷹男は珸瑶瑁水道を漂流したという経験から別の世界に密航する夢を抱き「オナニイの魔」として激しく自慰に耽る。不遇な出自と境遇が足枷となり、帰属意識を獲得できない「僕」たちの希望はダリウス・セルベゾフのヨット建造計画に向けられていた。それはアフリカの大地を夢想する虎に触発された全員の共通認識だった。そうして建造中のヨットは「友人たち(レ・ザミ)号」と名付けられ、彼らの青春の象徴とともに退廃の象徴となるのだ。



21世紀の世界文学30冊を読む

*新潮社(2012)
*都甲幸治(著)
 アメリカ文学研究者である都甲幸治氏は多数の翻訳を手がけているほか、何冊も文学ガイドブックを出版するなど、現代の世界文学を伝える文学紹介者としても活躍している。その出発点ともいえる本書ではアメリカ合衆国に関連する小説を軽妙洒脱に語っていく。アメリカばかりなのに世界文学といえるのか、という疑問の声はあるかも知れない。けれども特定の国の文学に分類するのは案外難しい。政治的理由で亡命する人。母国語ではない言語で執筆する人。帰化する人。他国の文化を書き続ける人。複雑な事情が絡み合い、特定の国に区分けするのが困難な人はたくさんいるのだ。安堵を求めて他者をカテゴライズしたがる人は、こうした世界的問題に直面するたびに自分の浅はかさを思い知ることになる(反省)。移民の国であるアメリカの作家を見ても、そうした複雑な事情を抱えている例は多数見られる。例えば本書の巻頭を飾るジュノ・ディアス氏。ディアス氏はドミニカ共和国からの移民で、ラテンアメリカ文学とアメリカ青春小説と日本のオタク文化をスペイン語と英語の混淆文で執筆した『オスカー・ワオ』でピューリッツァー賞を受賞した経歴の持ち主であり、著者が指摘する通りもはや何文学なのかわからない。ジュノ・ディアス文学としかいいようがない。本書ではこのようにアメリカとの関係が深く、それでいて英語圏自体を多面的に捉える一筋縄ではいかない作品・作者を取りあげている。固定観念を刺激し、視野を広げてくれる秀逸な案内書である。



シベリヤ物語

*講談社文芸文庫(1991)
*長谷川四郎(著)
 近現代文学の明確な境界線を設けるのは難しいが、日本文学史においては太平洋戦争前後を過渡期と見る傾向があるので、ここでは便宜的に第二次戦後派作家である長谷川四郎とその著作を現代文学に含めることにする。長谷川四郎といえば終戦後にシベリア捕虜収容所で抑留生活を送り、帰国後はフランツ・カフカやベルトルト・ブレヒトといった作家たちの翻訳に加え、アジア・アフリカ作家会議に日本代表団の団長として出席するなど波乱万丈で国際色豊かな経歴の持ち主である。本作品では著者自身のシベリア抑留体験を題材に捕虜収容所の日常を表現している。複数の物語を連ね、各章に異なる主役が登場するもののシベリア抑留という主題で連結しているので、短編小説集より連作形式の長編小説に近い。登場人物たちは多彩だ。ある捕虜はコルホーズで野菜の荷積みに追われているし、またある捕虜は極寒の中で道路掃除に明け暮れている。その労働は過酷を極める。しかし、長谷川四郎は捕虜収容所の内幕を悲劇的に暴露することも、批判精神に満ちたスローガンを掲げることもない。悲惨な情景なのに不思議と悲愴は感じないのである。悲惨を悲惨のまま表現するのではなく、淡々とした筆致で終戦後のロシアを描きだしている点に彼の特色はあるのだ。これはやろうと思ってできることではない。翻訳経験によるものか、翻訳小説を思わせる密度の高い文体も個性的だ。



世界哲学史 1 古代Ⅰ 知恵から愛知へ

*ちくま新書(2020)
*伊藤邦武(編著)
 山内志朗(編著)
 中島隆博(編著)
 納富信留(編著)
 古今東西の哲学・思想を「世界哲学」という主題で解釈するちくま新書の「世界哲学史」シリーズの起源は、世界哲学会大会を招致することを念頭に置いて提案した日本哲学界の理念にあった。世界哲学会大会は一九〇〇年のパリ大会以来、各国の哲学者が集まる国際学会として開催されてきたが、残念ながら日本での開催は実現していない。この「世界哲学」という主題は将来の招致を目指すとともに、世界哲学研究を推し進める哲学者たちの重要課題として掲げられている。ここに至るまでの足跡を新書にまとめていただけるのは、曲がりなりにも哲学を学んでいる身だけにありがたい。では「世界哲学」とは如何なる理念なのか。大きくわけると「哲学史への反省」「哲学史の世界化」「世界哲学の歴史化」の三点である。従来の哲学史は西洋哲学史とイコールで結び付けられて、主流からはずれる国々の思想は思想史という似て非なるものに区別されていた。いうまでもなく日本の思想も含まれている。皮肉なことにグローバル化の波は哲学史に正統なる概念を植え付けてしまった。「世界哲学史」シリーズではその正統な哲学を解体し、世界規模で新たな哲学史=世界哲学史の構築を試みる。だからといって西洋哲学を蔑ろにするのではなく、哲学史における西洋哲学の重要性を認めながらより哲学の知識と理解を深めていく。第一巻では古代オリエントと呼ばれるエジプトとメソポタミアに端緒を開き、旧約聖書とユダヤ教の歴史に踏み込む。そこから古代の中国とインドとギリシアを経て、国を越えた文化交流の様相に注目する。長大なシリーズなので第二巻以降にも触れていきたい。



大陸の細道

*講談社文芸文庫(1990)
*木山捷平(著)
 木山捷平は同人誌『海豹』創刊をきっかけに小説を書き始め、処女作『抑制の日』と『河骨』で二年連続芥川賞候補に選ばれたことで小説家としての地歩を固めていった。後年は直木賞候補にも選ばれている。獲得したのは芸術選奨文部大臣賞だけとはいえ、文学賞の少ない時代なので受賞歴より芥川賞と直木賞の候補作を書いた点に注目したい。小説ではおもに自分自身に材を取っている。喘息と坐骨神経痛の持病を抱えている作家の視点で、太平洋戦争末期の満州を描きだした『大陸の細道』も例外ではない。明農地開発公社の嘱託社員として満州に出かけた木川正介は、到着直後から想定外の事態に遭遇することに。案内役は病気ですがたを見せない。宿泊予定のホテルは極寒地獄。容赦なく再発する喘息と神経痛。総務部に呼びだされて仮病扱いを受ける。内科を探しているのに内科だけ見付からなくて体調不良にもかかわらず歩きまわされる。木川正介は序盤からツキに見放されており、酒を薬代わりにして憂さを晴らす。終いには現地招集を受けて兵役に就くはめになる。けれども木川正介という名前から察せられる通り、これは木山捷平自身の体験談を小説風に味付けしたエピソードなのだ。決定的な相違点は小説内の喜劇的な展開だろう。現実では終戦後の難民生活で飢餓状態に陥り、引揚船で佐世保に到着すると衰弱して骸骨同然になっていた。壮絶な経験をしたためか詳細を語りたがらなかったそうである。でも、木川正介は悲運に泣かされながらも、あくまでユーモラスな立ちまわりで満州の日常を表現し、そのユーモアのおかげで小説の世界は豊かな娯楽性に満ちている。



八面体

*水声社(2014)
*フリオ・コルタサル(著)
 創作活動と政治活動の優劣は決められないし、個人の自由意思を尊重するなら政治活動家に転身する作家をとめることはできない。現実と幻想の入り交じる幻惑的な短編小説と、驚異的な実験を試みた長編小説でラテンアメリカ文学ブームの礎を築きながらも、混迷の政治情勢に飲み込まれていくフリオ・コルタサルをとめられる人もいなかった。解説の項で指摘されている通り、初期作品集『対岸』と後期作品集『八面体』は彼の文学的情熱の始まりと終わりを表す作品なのかも知れない。本書は短編集『八面体』におさめられている八編、短編集『最終ラウンド』より三編、コルタサルの短編小説論考『短編小説とその周辺』を収録している。『八面体』という表題は八つの物語を八面体に喩えたもので、物語同士に関連性はないのに日常という舞台を不条理で彩る点で共通しており、幻想的な短編を得意とするコルタサルの真髄を見ることができる。ただし前衛的な展開と文体故に一筋縄ではいかないところもあるので(翻訳の問題もあるのかな)、不慣れな人は初期の面影を匂わせる『最終ラウンド』、短編小説の可能性に言及する『短編小説とその周辺』を先に読む方がよさそうだ。『シルビア』では子供の無限の想像力を、『旅路』では行き先をど忘れして駅の切符を買うのに手間取る夫婦の滑稽さを、『昼寝』では閉塞感にさいなまれた少女の妄想と絶望を、躍動感のある物語に換えるコルタサルの妙技を味わえる。



明治深刻悲惨小説集

*講談社文芸文庫(2016)
*川上眉山(著)
 泉鏡花(著)
 前田曙山(著)
 田山花袋(著)
 北田薄氷(著)
 広津柳浪(著)
 徳田秋声(著)
 小栗風葉(著)
 江見水蔭(著)
 樋口一葉(著)
 簡明直截な表題は伊達ではない。収録作はいずれも悲惨極まりなく、あまりの救われなさに憂鬱の虫に取り憑かれる。扱われている主題も差別に近親相姦に知的障害といった、現代的な喩えを用いるならセンシティヴな問題ばかり。知名度では泉鏡花『夜行巡査』と樋口一葉『にごりえ』が突出しているので、読んだことのある人は多いのではないだろうか。けれども川上眉山『大さかずき』、小栗風葉『寝白粉』、江見水蔭『女房殺し』なども日本文学史に残る傑作故に到底優劣を付けられるものではない。明治期の雅俗折衷体は不慣れな文体だけに始めは困惑するものの、巻頭を飾る『大さかずき』の文体は平易で親しみやすく、読み始めると案外明治の読書感覚を掴めるものである。リズミカルな語り口は慣れるに連れて風情を増し、流麗な表現法に魅せられていく。収録作の中では『女房殺し』の言文一致体は異彩を放っていて、ここでもまた明治期の革新的な響きを堪能することができる。ちなみに悲惨小説は紅露逍鷗(尾崎紅葉、幸田露伴、坪内逍遥、森鷗外)時代から自然主義文学が台頭するまでの中間に流行した文学形式で、社会批判精神を元に硯友社のスタイルを換骨奪胎して生まれた。類語として頻出する深刻小説は悲惨小説の別称で、観念小説は川上眉山と泉鏡花を特別視した呼び名なので要注意。この辺は解説者の齋藤秀明氏が観念小説を悲惨小説の下位概念と定義付けてわかりやすく説明しているので、詳細はそちらで確認していただきたい。



【読書備忘録】とは?

 読書備忘録は筆者が読んできた書籍の中から、特に推薦したいものを精選する小さな書評集です。記事では推薦図書を10冊、各書籍500~700字程度で紹介。分野・版型に囚われないでバラエティ豊かな書籍を取りあげる方針を立てていますが、ラテンアメリカ文学を筆頭とする翻訳小説が多数を占めるなど、筆者の趣味嗜好が露骨に現れているのが現状です。
 上記の通り、若干推薦図書に偏りはありますが、よろしければ今後もお読みいただけますと幸いです。


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