自分の文章は誰が書いたのか

【雑記】私の文章を書いたのは誰だろう

 たまにはnoteに関わる近況報告を。

 読書備忘録日記・雑記は継続しているものの、短編小説は『やしろ』を、掌編小説は『曼珠沙華の置き土産』を最後に更新がとまっていて少々歯痒いです。一応と言うのも変ですが、最重視しているのは小説なのでそろそろ新作を公開したいですね。しかし別件の原稿に注力しているため今のところ難航しています。ちなみにnoteで公開している掌編小説は二〇一八年三月五日現在いずれも数年前某所に掲載された作品であり、俗に言う大人の事情で闇に葬られたかわいそうな子たちです。詳細は念のため秘密にさせてくださいね。もっとも改稿を経てほぼ別作品に変貌しているので、新作と表現してよいかも知れません。そうした過去の産物はまだまだあり、時間・体力と相談しながら修正作業を続けています。
 既存の小説をなおすだけで何故そんな時間と手間がかかるのかと呆れられそうです。いえ、実際作業が遅れる最大の原因は小生の遅筆にあるため呆れられても仕方ありません。ただ、これから小学校に通い始める世間のキッズが生まれる前にこしらえた創作物を読むと、あまりにも作風が異なるせいで他人の作品を読む感覚になるのです。執筆した記憶も掲載された記憶もあります。間違いなく眼前の小説は自分が書いた文章です。それなのに自分の小説として受け入れようとすると、まるで盗作でもするような、罪悪感や嫌悪感にも通じる妄念に取り憑かれるのです。不思議にもこれは他者の小説を読んだり、あるいは近代作家の小説を模写しているときには感じません。おのれの小説だけに感じる奇妙な感想です。大幅な改稿を意識する理由はこの点にありまして、つまり存在しない他者の気配を弱めるため自分の面影を薄めるというおかしな実践に力を入れているわけです。まあ、実際文体にも構成にも技術的な甘さが目立ちますし、仮に先述のような珍妙な錯覚に陥らなかったとしても全面改稿することにはなるでしょう。

 冗長な文章を書き散らしました。ようするに「新作の執筆」「旧作の改稿」の同時進行に難儀している、という話です。元来シングルタスク型でマルチタスク処理が極端なほど苦手であり、無理すると肉体も思考も冷凍食品のように硬直するありさま。今後も試行錯誤を続けると予想されます。できるだけ早く新作=改稿した旧作(ああややこしい)を公開するよう精進しますね。そのさいは救済の手を差しのべる気持ちで読んであげてください。


お読みいただき、ありがとうございます。 今後も小説を始め、さまざまな読みものを公開します。もしもお気に召したらサポートしてくださると大変助かります。サポートとはいわゆる投げ銭で、アカウントをお持ちでなくてもできます。