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離れて暮らすうちに”夫婦”がゲッシュタルト崩壊した

ゲシュタルト崩壊(ゲシュタルトほうかい、独: Gestaltzerfall)
とは、知覚における現象のひとつ。 全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。

昨年の11月に夫をイギリスに見送ってから9ヵ月会っていない。離れていても関係が薄まらずに続けていられるのは”夫婦”という肩書があるからだ。恋人ならそうはいかないかもしれないが、私たちの夫婦関係は法律によって真空パックにされている。無闇に手を加えなければ長期保存OKという具合に。

言葉にしてしまうと語弊が生まれる気がするので歯がゆいが、『この人って私の夫なんだっけ』と、ふと思う。かつて恋人に対してもそうだった。まるで記憶喪失みたいに、過ごした時間も築き上げた関係も放りなげて、”私の夫”という事実だけを切り取ってみる。

『会ってないとなんか、夫婦って感覚が薄れてこない?あなたって私の夫なんだなって冷静になると今、顔見ててもすごい新鮮ていうか。』

スマホの画面越しにそう話したとき、理解を得られないどころか、少し悲しそうな顔をされた。私としてはポジティブな話だが、言葉のまま受け取ればひどい言いぐさだろう。私はこれを関係性のゲッシュタルト崩壊と呼ぶ。この字ってこんなんやったっけ?って思うのに似ている。

娘もゲッシュタルト崩壊する。自分の身体から切り離され、この世界に出てくる瞬間をしかと見た。だけど『かわいいねえ 赤ちゃんどこからきたん?』と問いかけてしまう。私たちはいわゆる”夫婦”で”親子”。世界は人であふれているというのに不思議、アナタが夫で娘なんて。そう俯瞰してみると、いつまでも真新しく新鮮な気持ちでいられるのだ。

一枚の手札と節のない藁

Tinderで偶然スワイプした1枚の手札だったのに、実際会ってみると、案外O脚だし男のくせに全然飯食わねえなと思った。息子がいいなと願掛けした、わら天神のお守りのワラに節がなかった時、ああお腹の子は女の子なのかと少し焦った。

この人じゃなかった場合の人生を一瞬思いめぐらしても、結局は”この人じゃなかったら結婚してないんだろうな”とか、”娘はこの子以外考えられないな”と確信めいてくる。スワイプするのが次の手札じゃなくてよかった。わらに節がなくてよかった。この人じゃない人生もあっただろうが、出会ったからにはこの人なしでは考えられない。

そんな夫と娘との3人の生活がようやっと見えかけている。ついにVISAが降りた、あと2週間で私たちは会える。

SUNVALLEY HOTELのインドカレー

夫をイギリスへ見送った夜、私はひとりSUNVALLEY HOTELのむちゃくちゃ美味しいカレーを食べたあと、泣きべそをかきながら帰った。夫がいなくてとにかく寂しいし、東京でひとりの妊婦生活が不安だし、そんな思いをしているのは自分のほうばかりじゃないかと思うと悔しかった。ここ数年いつだって美味しいものは分け合ってきた。こんなにおいしいカレーを食べても、美味しさを当たり前のように共有できたはずの夫がいない。さっきの店でどの料理がおいしかったとか、どうおいしかったとか言い合って、手をつなぎながら帰るのが楽しかった。今思えばそんな日常は2度とこないかもしれないのに。次にアナタと会うとき私たちは男と女ではなく、DINKSでもなく親になっているのに。次会った日には私はアナタが知ってる私じゃないかもしれないのに。こんなにも私がヒリヒリしていることを、アナタは気づかないだろう。

三軒茶屋の住宅街をとぼとぼ歩きながら思わずウゥッと声を漏らしてしまう。会えない間に起きるかもしれない、テロや事件や事故、浮気に病気…考えられうる心配事を全部想像した。妊娠のせいで感情が高ぶっているだけだと自分をなだめながら、今日からひとりで乗り越えなければならないあらゆる不安や出産の恐怖を、少しずつ前借りしてゆく。全部ぜんぶ終わったら、取り越し苦労だったと笑いたい一心で。

例の渦中であきらめかけていた再会を、私たちはどんな風に顔を見合わせるだろう。気負う必要はない。私たち”家族”はまだ、はじまったばかりだ。いつか”家族”がゲッシュタルト崩壊して、この”家族”を確信する日が来るんだろう。

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