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『カミサマはそういない』著:深緑野分(集英社)

自分の背丈ほどの大きなカタツムリが背中の殻をぐるぐると回転させながらゆっくり、じりじりと自分に迫ってくる。
殻に浮かぶ凹凸が人の顔のようになり、笑っているようでも怒っているようでもあった。私は怖くて泣きながら母を探した。お母さん、お母さん…
やっと見つけた。
母のもとにかけよったその途端、母の姿は真っ黒な一羽のカラスとなり、私を見捨てるかのように飛び立った。私は声にもならぬ声をあげ、立ち尽くした。そこで目が覚めた。悪い夢だ。

当時、七歳くらいだったから夢の記憶は多少誇張されているかもしれないが、目覚めの絶望感は四十年以上経った今でも、こうしてすぐに取り出せるほど生々しい。あれから幾度もいわゆる悪夢にうなされることはあったが、七歳のあの夢の中ほど「神さま…」と叫んだことはない。同時に、あれほど現実に救われたと思えたこともない。

つまらない夢話が長くなった。

『カミさまはそういない』は七つの短編から成っている。舞台は現代に近い日本であったり、外国だったり、近未来だったりと多様で、どれも奇妙な物語だ。話の扉を開くたびに自分の居場所もワープしていく感覚はおもしろいが、同時に読み手として自分の定位置が定まらず常に漂わざるをえない不安定さが恐怖感を増幅させている。それもこの本の醍醐味であろう。

そして私はあの七歳の日の夢のラストの絶望感、目覚めの恐怖感、―それは夢と現実との境をさまよい、どちらにひっぱられても自分が粉々に崩れてしまうのではないかという感覚―そしてようやく現実に意識を預けられてからの安堵感、をこの本で何度も往復することになった。

伊藤が消えた』は、その消えた伊藤の居場所をおそらく最初から知っていただろう一匹の蝿が飛び立ち、嵐に巻き込まれていくさまに、カタツムリの殻のにやけた顔が浮かんできた。

潮風拭いて、ゴンドラ揺れる』はまさに「目覚める」場面が二つあること自体が恐怖である。あのひっぱられる感覚が二度もあったのだから。

朔日晦日』の舞台はおそらく戦前の日本、とある兄弟の話。光を見たことで何かにとりつかれた兄が蛞蝓(なめくじ)をじいさまだと愛でるのを恐ろしく感じ、弟が草履で踏みつぶす場面がある。私のなかでは蛞蝓は殻をはがされたカタツムリであるから、ここは不気味さと恐怖の最高潮であった。兄の病は、原爆の光を見た人がかかる症状にも似、カミか神かに連れていかれたと解釈できる。

見張り塔』では戦時下で過酷な任務につく兵士たちの話。『ストーカーVS盗撮魔』では、ネット上のアカウントの本人を観察することが趣味の男が主人公。
舞台は違えど、彼らは箱庭のような世界におり、自分が戦っている相手すら見えていないところは滑稽だ。俯瞰してみればそれは私たち自身の姿でもあると読める。だからこそ息苦しくて仕方なかった。

饑奇譚 (ききたん)』の舞台は外国の国のスラムのような街。年1回の太陽光が“大放出”される日、人々は空腹を満たしておかないと体が消えてしまうという不思議な話で、読後は「カラスになった母に置いて行かれた」かのように絶望しながら最後の『新しい音楽、海賊ラジオ』を読んだ。この舞台は近未来的な海辺の街。少年たちが新しい歌を求め、海賊ラジオを探す。ここまで読んで、ため息をつく。やっと息苦しさから解放された。

しかし、現実に救われたかというとそうでもない。現実のほうが怖いことも、救いがないこともあると今では知っている。あの夢をもう見たくはないが、この本はもう一度読みたくなる。生々しい絶望感の波をかきわけ深呼吸にたどり着く、この往復が癖になれば、カタツムリとカラスの呪縛からも逃れられそうな気がしている。 

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