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目に見えない宝物 ~小澤征爾パリ公演の思い出

2015年7月初旬のこと。前年パリ市内に開館したばかりの、Louis Vuitton 財団の音楽ホールへ向かった。建築家フランク=ゲーリーが手掛けた、帆船の形をしたアートと音楽の発信地である。その地で小澤征爾が指揮をするという。それが私にとって生涯忘れがたい、最初で最後の小澤の公演となった。体調の悪化で直前のスイス公演がキャンセルになり、パリ公演も危ぶまれたが、無事開演してくれたことに心から感謝したい。
 
演奏者は、2004年に小澤が創設した音楽塾「小澤征爾スイス国際アカデミー」の若い音楽家たちだ。毎夏、全世界から選りすぐりの若者たちが、スイスのレマン湖畔にあるロールという町に集い、12日間缶詰になって仲間たちとともに弦楽四重奏を深く学ぶ。講師陣は、小澤征爾が厚い信頼を寄せるヴァイオリニストとチェリストたちだ。その成果をLouis Vuitton 財団の音楽ホールで披露する。

このホールは、まるでプライベート空間のようにステージと客席が近い。席に着くと、演者の壇上を取り囲むように張り巡らされたガラス越しに、階段状の滝がこちらに向かって静かに流れてくる様子が目に入ってきた。時間の移り変わりとともに、沈んでいく陽光に照らされて水の表情が変わる。その幻想的な光景に見入っていたら、いつの間にか日常の喧騒を忘れ、心が落ち着きを取り戻していた。
 
コンサートが始まった。前半は6つのカルテットによる演奏だ。どのカルテットも、演奏するのは全曲のうち、たったの1楽章のみ。皆ソロでもやっていけるレベルの実力派ぞろいだ。あふれんばかりの若さと、音楽に対する純粋さやひたむきさを存分に発揮していて眩しかった。ひとりひとりが仲間の奏でる音に全神経を集中させている。皆で美しい音を紡ぐことの喜びが伝わってくる演奏だった。

どのカルテットも素晴らしかったが、とりわけ心を打ったのは、Samuel Barberの第2楽章Adagioと、Maurice Ravelの弦楽四重奏ヘ長調の第2楽章、そしてMendelsshonの弦楽四重奏第6番ヘ短調作品80の第1楽章だ。BarberのAdagioは、天に昇っていくような、静謐で深い音楽で、ぴんと糸が張ったような緊張感があり、最後の一音が消え入った後の沈黙さえも愛おしく思わせる演奏だった。ピッチカートが印象的なRavelでは、弾けて生を受けたような、色彩豊かで躍動感ある音のうねりがとても心地よかった。Mendelsshonは、まるで誰かの幸せや悲しみ、希望を追体験するような感情の起伏を内に感じた。それぞれのカルテットが、ある個性をすでに持ち、音楽を通じて観客に語りかけてくる。たった二週間でこれほどのクオリティに仕上がっていることに驚嘆した。
 
 
後半は、いよいよ小澤征爾の指揮による弦楽アンサンブルだ。観客の拍手とともに舞台袖から出てくる生徒たちに交じって、ひょこっと小澤が出てきた。奏者が出そろってから指揮者が登壇するのが常だが、特別扱いされることを嫌う小澤らしい登場の仕方である。トレードマークの真っ白でふさふさした髪が、浮世離れした仙人を思わせた。術後の体調を気遣って椅子が用意されていた。指揮台がない。すべて暗譜しているのだ。

ベートーベンの弦楽四重奏(16番ハ短調作品135)。一音目から鳥肌が立った。そして知らぬ間に涙が流れていた。この人は私たちをどこまで高みに連れていくのだろう。言葉にならないほど美しかった。前に座っていたご婦人もそっと涙をぬぐっていた。アカデミーの生徒たちも、この瞬間が貴重な、特別なものだと悟っているのか、その集中力たるや圧倒的だった。指揮者のいかなる小さなサインをも見逃すまいと全身全霊で奏でていた。最後の音を奏で終え、聴衆に背を向けた小澤の指揮が止まった。数秒の沈黙が訪れる。息をのんだ。時が止まったかのよう。永遠を感じた。

短い休憩の後、グリーグのホルベルグ組曲が演奏された。この曲は個人的に思い入れのある曲で、学生の頃、ある弦楽アンサンブルに管楽器パートで参加した際、アンサンブル仲間が演奏した曲だった。山にこもって特訓していたときに何度も練習で聴いていたので、いろんな思いが入り交じって格別だった。瑞々しい果汁を味わっているかのような第一楽章。続く第四楽章では、誰かの人生の深淵に立ち、それを覗いているような心地がした。絶望の中にあっても、かすかに希望の兆しが見えるようにして終わる。フィナーレの第五楽章は、木々に芽吹いた若葉が、天に向かって少しずつ自分を広げていくようだった。晴天に恵まれる日あり、雨や強風に打たれる日あり。それでも今置かれた世界を生きていく。その喜びや苦しみを歌っているように感じた。
 
夫と私は、演奏後、放心状態になった。「言葉がない」と夫が横で呟いた。私たちが経験したものは、はたして現実だったのか。オーケストラとともにどこか別の世界にいたように感じた。小澤が席を立ち、穏やかな表情でステージ中を歩き回りながら、若き音楽家たちを労っていく。惜しみない拍手や歓声を送る私たち聴衆を前に、塾生たちが満面に笑みを浮かべる。小澤に向けた彼らの温かい眼差しから彼への敬愛の念が伝わってきて、それもまた深く胸を打った。

後にLouis Vuitton財団が、アカデミーの取り組みやこのコンサートを一つの番組にまとめたのだが、そこでインタビューを受けた若者が次の一言を残している。「(音楽を通じて)征爾がどれほど私たちの魂やアイデンティティ、人生、心に触れているか、彼に伝えたい。彼が在ることに対して、そして彼が限りある体力を私たちのために使ってくれていることに心から感謝したい」
 
まだ少し余韻に浸りたくて、ホールを一回りしてから帰った。あの時の恍惚感や目まぐるしい感情の波が、今でも胸の内にありありと蘇る。小澤征爾が命を削っても彼の音楽を届けに来てくれたこと、若者が小澤から音楽の本質を受け取りそれをとことん表現してくれたこと、そして偶然にしてあの瞬間あの場にいられたことに心の底から感謝し、終生宝物のように抱いて生きていきたい。



Louis Vuitton財団制作の番組はこちらから。
”Le souffle de la musique, Seiji Ozawa International Academy Switzerland”

Une semaine, une masterclasse. 🎶 Diffusion ce dimanche à 17h30 du documentaire « Le souffle de la musique » revenant...

Posted by Fondation Louis Vuitton on Sunday, June 7, 2020

当日の小澤指揮のベートーベン及びグリーグ公演はこちらから。


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