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労働マシーンの華やぎ

 普通、僕は週末には人に会わない。外出はしない。家を少し片付ける。おとなしく落ち込んでいる。(ミシェル・ウエルベック著、中村佳子訳『闘争領域の拡大』、河出書房新社、2018年、40p)

 一か月ほど前から、軽めの労働に従事していて、一年半ぶりの労働だったが、いともたやすく労働力としてのあり方を取り戻した。ひとたび労働を始めると精神が労働モードになり、家に帰ってからも怒涛の勢いで排水溝の掃除や日用品の在庫確認を行い、スーパーと薬局をはしごして買い出しを済ませた後、三日分の作り置きの料理を作る労働マシーンと化してしまった。合理主義の精神に則って、身の回りを最適化し、私の壊れやすい身体が翌日も翌々日も労働に出かけるのに必要なあれこれを再生産するために、余った労働力と可処分時間を使い果たす。そのようにして、あまりに脆弱な自動機械と成り果てた私から、剥がれ落ちていくものは何か。

 労働を苦役へと変えているものは何か。それは割に合わないと感じられるほどの低賃金であったり、今日と同じような日が明日からも続いていくことへの疲労感であったり、感情労働を強いられるストレスであったりするだろう。しかし、労働問題について、ここで深く掘り下げて考察するほどの知識が今はまだない。疲れやすい心と体に鞭を打ってなんとか働く一小市民としての生活実感を以下でとりとめもなく述べてみたい。

 労賃にとって最低の、どうしても必要な水準は、労働者の労働期間中の生活を維持できるという線であり、そしてせいぜい労働者が家族を扶養することができ、労働者という種族が死滅しないですむという線である。スミスによれば、通常の労賃は、最低の労賃、つまりむきだしの人間性すなわち動物的生存にふさわしい労賃である。(カール・マルクス著、城塚登・田中吉六訳『経済学・哲学草稿』、岩波書店、1968年、p.18)

 「通常の労賃は、最低の労賃、つまりむきだしの人間性すなわち動物的生存にふさわしい労賃である」、思わず復唱したくなるフレーズである。最低賃金というものが存在するが、最低賃金の金額は、最低賃金法が示す基準によって定められる。最低賃金の原則として、最低賃金第3条には以下のように書かれている。

第3条(最低賃金の原則)
 最低賃金は、労働者の生計費、類似の労働者の賃金及び通常の事業の賃金支払能力を考慮して定められなければならない。

 労働者の生計費というのは、つまりは家賃や食費、交通費なども含む、労働を継続することが可能な生活を営むために必要な金額を示すものであり、上記のマルクスの引用における、「労働者の労働期間中の生活を維持できるという線」、「労働者という種族が死滅しないですむという線」と一致する。とはいえ、最低賃金が、「むきだしの人間性すなわち動物的生存にふさわしい労賃」であることが現代においても良しとされているのかというと、それは疑わしい。労働基準法第1条に、「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない」と明記されているし、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と憲法第25条は規定している。労働者の労働期間中の生活は、単に動物的生存を可能にするだけでは十分ではなく、「人たるに値する生活」、「健康で文化的な最低限度の生活」以上のものでなくてはならない(参考:https://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/03/s0303-9c.html)。

 「人たるに値する生活」、「健康で文化的な最低限度の生活」を営むに足る生計費の内実は、なにがそれらに不可欠な要素であるかによって決定される。そしてその基準は、最低賃金だけでなく、生活保護の支給額とも密接に関係している。その意味で、生活保護受給者が贅沢と映る暮らしをしていることにたいするバッシングは、「人たるに値する生活」、「健康で文化的な最低限度の生活」の基準を自ら引き下げようとする不条理な振る舞いであると言える。

 労働は賃金によってだけではなく、職場までの通勤路や拘束時間の長さによって、私たちの住む場所や、思い通りに使うことができる時間帯など、私たちの生活の時空間的な枠組みをかなりの程度決定づけるものである。それと関連して、個人的に労働に身を捧げる上で最もつらく耐えがたく感じるのは、所属している職場や、従事している職業の価値観や職業倫理を全面的に内面化せずにはやっていけない点である。とはいえこの点は大いに個人差があると思われる。本音と建て前をきっぱりを分けて使い分けることができる人、殺してやると呟きながら頭を下げることができる人間にとっては、このことは大した問題にはならないだろう。しかし、私は殺してやると思いながら謝ることができず、頭を下げているうちに申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう人間なので、自分が合わないと思う価値観や倫理観に沿って動いていく仕事に、己の時間や体力の大半を使い果たすことが苦しくてたまらなかった。また、全面的に内面化せずにはやっていけないということは、それらの価値観に疑問を差し挟む余地がないということで、疑いの念を向けることは、自己の内部に矛盾を引き起こし、職務を遂行する上で邪魔になる苦痛の念を生じさせることに他ならないからである。自らが為す仕事が引き起こしうる結果について、自分も含めた多くの人間がこのような仕事に従事することによって形作られる社会について、想像力を働かすことなしに、ただひたすらに目の前の業務に没頭することは、私はアイヒマンであるかもしれないという恐怖と隣り合わせのものだった。組織の中で働くことは、社会による殺人に自覚なしに加担しうる可能性を含み持つものであるので、労働について考えようとする時にはいつも、エルサレムの裁判中のアイヒマンの悪びれない顔が脳裏をよぎる。

 樫村愛子の『この社会で働くのはなぜ苦しいのか 現代の労働をめぐる社会学/精神分析』によれば、労働社会は普遍的・絶対的なもの、人間に本質的なものではなく、歴史的に形成され、有限性をもったものであるとして、労働中心社会イデオロギーの脱構築を試みた書物として、ドミニク・メダの『労働社会の終焉』(邦訳は法政大学出版局から出ている)が挙げられている。

 メダは、十八世紀の政治経済学によって労働が発明され、十九世紀に「人間の本質としての労働とその開花」という神話が誕生し、労働の解放よりも雇用を重視する社会民主主義による二十世紀労働表象が形成されたことを指摘する。そして、労働とは人間の不変の本質として表象されるような「人類学的カテゴリー」ではなく、近代においてその発明が必要になった「歴史的カテゴリー」であることを指摘する。(樫村愛子『この社会で働くのはなぜ苦しいのか 現代の労働をめぐる社会学/精神分析』、株式会社作品社、2019年

 キリスト教文化圏において、アダムの堕罪に対する罰として課せられた労働が、人間の本質とみなされるまでに至った、労働概念の変遷の歴史に、いまは非常に興味が出てきているため、これからしばらくは、恥ずかしながら未読であるウェーバーやメダの著作、インターネットの友達の影響で齧り始めたアナキズム関連の本を読んで、労働に関する考えを深めていきたいと思う。

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