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キスの後の、後。

 降り止まない雨の音が遠くに聴こえる。汗をかいた肌が冷えて寒い。
 乱れたベッドから出て浴室へ向かう。ぬるいシャワーが夕べの雨のようにざばざばと足元に落ちてゆく。
 
 彼は先に出て行った。今、何時だろう。

 浴室から出ると、サイドテーブルに小さなメモを見つけた。
 『先に出る。支払いは済んでる。直哉』

 夕べ、直哉とキスをした。
 人によって最高のキスって違うと思うけど、私にとってはあれが人生で最高のキスだったと言い切れる。
 最高に甘くて、熱くて、切ないキス。

 私は彼が好きだった。夕べ、初めて彼に触れた。
 学生の頃からの片想い。だけど私のものにしたいとは思わなかった。手に入れてしまえばきっとこんなにも想えない。抱きしめられてみたいけど、愛されたいわけじゃない。それが私の恋だった。

 夕べの残業帰りに偶然直哉に会った。
 直哉は金曜の夜に何の予定もないという私を、食事に誘った。気晴らししたかったから丁度良かった、と言って笑っていた。
 
 駅近くの居酒屋。箸で口に物を運ぶ動作や、少し目を細めてお酒を飲む表情に思わず見とれる。
 「残業だったんだろ? 大変だな」
 彼はいつでも自分より周りを気遣う人。だけどこの日は珍しく彼も少し愚痴を吐いた。少し疲れて見えた。
   
 店を出ると外は雨だった。
 ツンとした雨の匂いが鼻をつく。二人とも傘は持っていなかった。
 「コンビニで傘でも買うか」
 彼はそう言って雨の中に飛び出す。私はお気に入りのパンプスを履いていて、とっさに、汚したくないと躊躇った。そんな私をもどかしく思ったのか、彼は私の腕を強く引いた。
 
 雨は次第に強まっていく。パンプスは水を跳ね上げ、メイクも髪のセットも崩れていく。繋いだ手の先に彼のしなやかな背中が見える。綺麗。
 「……直哉」
 ほとんど無意識に、私は彼を呼び止めていた。振り返った彼の目を私はじっと見つめる。
 「キス、しよう」
 
 ずぶ濡れのみっともない姿で、こんな汚い路地裏で、私は彼にキスをせがんだのだ。普段の私なら絶対に言わない。直哉は少し戸惑いを帯びた目で私を見ている。
 雨のせいか、アルコールのせいか。何がそうさせたのかは分からないけど、私は目を逸らさなかった。
 
 彼は何か言おうとしたように見えたけど、次の瞬間私の身体を引き寄せ、噛みつくように口づけた。
 
 絡み合う舌と、漏れる吐息が次第に激しくなる。強い雨に打たれながら、熱を分け合うように深くキスを繰り返す。彼と私が溶け合う。
 唇を離すのさえ名残惜しく、彼にもっと溺れていたかった。私は彼の胸に顔をうずめる。
 「お願い、今夜だけ」

 お互いにシャワーを終えると、彼は覆い被さるようにして、仰向けの私を見下ろした。
 私の心が彼の全てを求めてやまない。
 今日の私はどうかしている。そして恐らくは彼も。
 
 私達は言葉も交わさず、背徳の扉をノックするように、お互いの唇をゆっくりと重ねた。
 触れ合う肌から彼の熱を感じ、切なく顔を歪める彼にまた欲情する。激しくなる彼の息遣いと旋律。そうして果てる瞬間、絞り出すように名前を呼んだ。
 「……綾っ」
 被さる重みが愛しい。重なる彼の肩越しに壁に貼られた鏡が見えて、私は私と目が合った。
 私の名前は綾ではない。
 私は加奈。
 綾は彼の恋人の名前。

 綾は彼の恋人で、私の親友でもある。
 夕べの彼の愚痴は綾のことだ。最近すれ違い気味なんだ、と気まずそうに笑っていた。
 美人で気さくな綾は何の取柄もない私にとって憧れの存在で、その眩しさで時に胸が焦げそうになる。
 そしてそんな綾に彼氏として紹介されたのが直哉だった。不毛な恋だと分かりつつ、惹かれる気持ちは止められなかった。そしてその気持ちはずっとこっそり隠していた。

 いつも綾を抱きしめているその腕に頬を寄せる。綾は私が欲しいものを全部持っている。美貌も強さも明るさも、この腕も。
 初めて奥深くまで彼を感じた。痛いほどの快感の中、私は彼に抱かれながら理解していた。
 一歩踏み出してしまったのだと。恋がもう終わるのだと。
 それでも良い。今はただ彼と触れ合えた幸せで胸がいっぱいだ。
 知らなかった。嬉しい時って、少し切ないんだ。

 ベッドから起き上がって服を着る。夕べの劣情は嘘みたいに、頭の中はクリアだ。  
 チェックアウトの時間が迫っている。走り書きのメモをくしゃっと丸めてゴミ箱に捨てた。
 
 ホテルを出ると雨は上がっていた。最寄り駅から電車に乗る。
もう一度、最高のキスを思い出す。
 長い間抱き続けた想いを、私自身が断ち切った。
 それはとても小さく、弱い自分自身。

 一歩踏み出したその先が明るい未来かはたまた地獄か。今はまだ見えないけれど、もう進むしかない。

 電車を降りたところで携帯に綾からメッセージが届いた。
 『今日会える? 話聞いて~』
 私は一度空気を大きく吸って深呼吸する。
 『ごめん、行けない』
 打ち終えた一文を何度か読み返し、えい!と送信した。
 家に着いたら部屋を片付けよう。綾を真似て買った服も直哉が好きなバンドのCDも、全部捨てよう。
 鞄の中で携帯が震える。不安や恐怖は今にも溢れだしそうなほど大きい。でも、大丈夫。
 
 だって空はこんなにも、晴れているんだから。


#2000字のドラマ

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