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創作の経過報告

「斎王からの伝言」の創作活動が3年くらいストップしています。
設定ではもう「斎王からの伝言」内で創作される「周波数別宇宙環境循環維持社会主義」の提言となるストーリーが出来上がって、コウがネット上で漫画を掲載し、それがきっかけとなり全世界で「全ての周波数を計測」→「周波数のタイプが7タイプあると発表」→「地球にとってのベストな周波数を配置していくための土台の調査が始まる」という設定でした。

地球温暖化→災害→コロナ→ウクライナ戦争

物語が書けていないのは、自分の生活の事情もありますが、世界全体を「知らない」事が原因です。
はじまりから理解ができていないので書けません。

自分なりに創作をしていけばいいとも言われましたが、「知らない」のにアイデアも湧いてきません。
一番私にとって創作する上で気を付けている事は「根拠」です。

それは私が、日常生活での会話がとてもいい加減で「」がとても多いからです。自分の行動が後ろめたいと簡単に嘘をついて誤魔化すという癖があります。
一つ一つ真剣に答えると、とてつもなく疲れます。
嘘をつくことが私は日常的です。

人は嘘をつく。サピエンス全史の概要をyoutubeで見て、それが当たり前なのだと理解しました。

「現実には存在しない虚構(フィクション)を信じ、語ることのできる能力」が人類の繁栄に決定的だったといいます。」

お釈迦様が説いたとされる「八正道」の一つに「正語」というのがあります。

「言葉に気をつけることは、心の成長には欠かせません。人間は、内容に注意せずにしゃべる時には、かなり頭が悪くなるのです。言葉の管理を怠ると、自分で気づかないうちに、脳がかなりのダメージを受けます。」

言葉に注意しないと「脳にダメージを受ける」・・・。
京都のあるお寺に行った時、人のお話をきちんと聴かないと「ボケる」って書かれてありました(記載内容は曖昧です)。

中途半端な受け答えは、頭を使っていない。これは今後の私の課題です。


分類学
昆虫600万種~1000万種と推定した時に36万種のゾウムシがいる。
既に発見されているゾウムシ6万種。日本は1800種。
名前がついていない新種で標本にされている何千あるゾウムシの名前をつけるためにAIを利用して自動で登録できないか。
これって、周波数別宇宙環境循環維持社会主義のアイデアになるのでは!?

https://youtu.be/CTBbs-TVuhY

恐竜
ワニと鳥が恐竜からDNAを引き継いでいる。あれ・・・竜??
https://youtu.be/Ws_6duJdgDw

ロシア
ヘレナ・P・ブラヴァツキー(ロシア建国者リューリクの血統の名家ドルゴルキイ家系統・神智学)ら辺を調べる必要ありです。
不思議の国ロシア

〇兄貴・・・「ウクライナ」はどの兄貴につくか
〇ロシアは話し合いが出来ない法律がある
〇プラハの春のように ロシア人とウクライナ人は同一なので丸く治まると
判断していたのでは
〇ロシア軍事力の内訳→ 原価で武器を自国で作れる・90万人のうち20万人が徴兵
〇中国は民生に発展している。イノベーション→軍事に還元
〇米ロ関係の厳しさが長期化→日ロ関係も同様
〇ルーシー民族(ウクライナ・ベラルーシ)
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不思議ロシアなら、二人の神秘主義の存在の影響を調べてみないとロシアの肌感覚的なものが分からないような気がします。
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【ヘレナ・P・ブラヴァツキー】Wikipediaより
ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー

別名H・P・ブラヴァツキー
ヘレナ・P・ブラヴァツキー生誕1831年8月12日
ドニプロペトロウシク死没1891年5月8日(59歳没)
ロンドン時代近代地域ヨーロッパ、アメリカ、インド学派近代神智学研究分野神秘思想仏教ヒンドゥー教オカルティズム

近代神智学


ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(Helena Petrovna Blavatsky、1831年8月12日1891年5月8日)は、近代神智学を創唱した人物で、神智学協会の設立者のひとりである。

著書の訳書はH・P・ブラヴァツキーヘレナ・P・ブラヴァツキーとして出ている。通称ブラヴァツキー夫人。ブラバッキーと誤記されることもある。父方はユグノープロテスタントフランス系)の血を引くドイツ系、母方はロシア人で、ロシア語でのフルネームはエレーナ・ペトローヴナ・ブラヴァーツカヤ である(ブラヴァーツカヤはブラヴァーツキーの女性形)。旧姓フォン・ハーン 。

概略

彼女の生涯は多くの謎があり、特に1874年にアメリカで活動を始めるまでの前半生は全く分かっておらず、多くの神話に彩られている。ブラヴァツキー自身が残したメモや日記、周囲の人びとに語ったことがら、親族など近しい人びとの証言などが再構成され一般にも流布しているが、相互に矛盾が多く、一見荒唐無稽とも思われる事件の連続であり、真偽については議論を呼んできた。神智学協会や支持者は正しさを証明しようとし、批判者は虚偽であることを暴こうとし、現在も毀誉褒貶が激しい人物である。

神智学協会は、「偉大な魂」(マハトマ)による古代の智慧の開示を通じて諸宗教の対立を超えた「古代の智慧」「根源的な神的叡智」への回帰をめざしていた。その思想は、キリスト教仏教ヒンドゥー教古代エジプトの宗教をはじめ、様々な宗教神秘主義思想を折衷したものである。「神智(theosophy)学)」はキリスト教世界にすでにあった概念で、“theo(神)+ sophia(叡智)”つまり「隠された神性の内的直観による認識」を意味しており、神智学協会の名称にこの語が採用されたのは、偶然が多分に働いているといわれる。協会のスローガンは「真理にまさる宗教はない」であり、神智学は宗教ではなく神聖な知識又は神聖な科学であるとされる。

ブラヴァツキーに始まる近代神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒し、イェイツカンディンスキーにも影響を与えた。

ニューエイジ思想や大衆的オカルティズムの起源として、また新宗教への影響も大きい。

生涯

幼少期

1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ドイツ系貴族で騎兵砲撃隊長のペーター・フォン・ハーンを父として、ロシアの名門出身で女権主義者で小説家のヘレナ・アンドレヤヴナ・フォン・ハーンを母として誕生。ロシア首相を務めたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は従弟である。2人の共通の祖母が、ロシア建国者リューリクの血統の名家ドルゴルキイ家出身の女性博物者ヘレナ・パブロブナ・ファジェーエフである。

母は若くして亡くなり、父は軍務で落ち着かず、幼少期の実質的な家は母方の実家で、ヘレナ・パブロブナ・ファジェーエフがヘレナの母代わりだった。祖父も知事としてロシア帝国の辺境を転々としており、幼いヘレナの生活は旅の連続であった。

幼いころから精霊と会話する夢見がちな少女であったという。性格的には激しい気性の持ち主であったという。1844年には父親とともにパリロンドンに行き音楽教育を受け、ピアノ演奏などを習得した。

出奔後

1848年、アルメニアエリヴァン地方副知事の職にあり、20歳以上(40歳差?)も年上であったニキフォル・ブラヴァツキー将軍と結婚した。結婚は長続きせず、数ヶ月で家を出て何度も住まいを変えた。この夫婦のケースでは法律上離婚が困難であり、エレナもブラヴァツキー夫人という名で呼ばれることを選んだ。年齢差の大きい夫との結婚生活を嫌ってのことだとも、ファジェーエフ家をよく訪問していたフリーメイソン会員アレクサンドル・ドリツィン大公の手引きがあったも言われる。ここから先のブラヴァツキーの人生は謎に包まれている。婚家を出奔してからは、1858年頃から数年間はロシアに戻っていたと考えられているが、その時期以外は1873年にパリに戻るまで、24年間の動向に定説はない。

自伝によれば、世界を旅して秘教を学び、エジプト、ジャワ、日本まで訪問し、インドのラダックからチベットに入国しようとしたという(のちに自身の著書で「1856年から7年間チベットに滞在し、導師たちの教えを受けた」と記述しているが、状況や彼女の他の年譜とも矛盾し、これについては信じがたい)。そして1851年にロンドンのハイドパークで初めてマスター(霊的師匠)に出会ったとしている。アメリカ人作家A・L・ローソンの回想では、1851年にエジプトに滞在し、コプト人魔術師パウロス・メタモンに教えを受け、1851年に一時期ニューヨークにいたという。
世界各国を放浪し様々な職業についたとも言われる。従弟のウィッテ伯爵の回想録では、ブラヴァツキーはイギリス人船長と駆け落ちし、サーカスに入り、オペラ歌手ミトロヴィッチと同棲するなど、地中海周辺を転々としていたとされる(ただし、ウィッテはブラヴァツキーの結婚の年に生まれており、彼女が出奔した時はまだ赤ん坊である)。ブラヴァツキーは、エジプトに行き心霊協会を組織したり、パリではイギリス出身の高名な霊媒ダニエル・ダングラス・ホームの助手となり自らも霊媒の素養を身につけたとも言われる。またフランス系のフリーメイソンのメンバーとも交流したという。

吉永進一・松田和也は、1851年パリ滞在時に、催眠術師の被験者になって水晶占いや霊体離脱を学び(彼女はトランス状態で完全な人格転換を起こす優秀な霊媒であったといわれる)、1871年にカイロでメタモンに再会したこと、「心霊協会」を設立して失敗したことは事実のようだと述べている。

在米期

1873年には、パリからニューヨークに渡った。後年、属している秘密結社の指令で霊的運動を起こすための渡米であったと述べている。

1874年、ヴァーモント州チッテンデンで行われていたエディ兄弟の降霊会において、ヘンリー・スティール・オルコット大佐と出会った。以降、二人は積極的に心霊運動に参加していったが、1875年7月に発表した記事以降、原理的に心霊主義と正反対であるオカルティズムへ唐突な方向転換がなされた。1875年、オルコットは突然ブラヴァツキーを通して、エジプトのルクソール同胞団という秘密結社の入会許可書をもらい、同会に所属するマスター“トュイティト・ベイ”なる人物から手紙を受け取るようになった。吉村・松田は、その手紙の内容はあまりヴラヴァツキーに都合がよかったが、オルコットは特に疑念を抱いていなかったようだと述べている。ここで登場するトュイティト・ベイは後に神智学の「マハトマ」という概念に変化してゆくことになる。これは意味としてはおおむね“古代から継承されている霊知を少数の賢者にのみ伝える未知の上位者”を意味しており、こうした発想というのは元をたどるとフリーメイソンの厳格戒律派やイギリス薔薇十字協会などに見られたものである。この時期のブラヴァツキーの目はエジプトに向いていた。

1875年9月7日、ブラヴァツキーの自宅にて、ジョージ・フェルトを講演者とし「エジプト人の用いた比率の失われた基準」と題した講演が行われた。フェルトの講演に刺激を受けて、彼の数秘術四大霊の実験を目的とする団体の設立が提案された。

1875年11月17日神智学協会を正式に創設。初代会長には、オルコット大佐が就任し、協会の運営を取り仕切ることになった。副会長はジョージ・フェルト、図書室司書はチャールズ・サザラン(フリーメイソンのメンバーでイギリス薔薇十字協会会員)、評議員に霊媒のエマ・ブリテン(1876年に『ベールを取られたイシス』の先駆をなす革新的な書『人工魔術』を編集したとされる)、“交信秘書”としてブラヴァツキー、顧問弁護士としてW.Qジャッジ(この人物は後にアメリカ神智学協会会長になる)、という構成であった。設立当初は相当活気があったという。1877年に 『ベールを取られたイシス』(ベールをとったイシス)を出版。執筆には会員たちの助けがあったと考えられているが、ブラヴァツキーは協会設立からわずか2年で1000ページを超す大著を完成させた。上巻で科学の誤りを、下巻でキリスト教の誤りを論じており、西洋オカルティズムをベースに、エジプトを指向したものであった。ここで説かれた内容は、イシス密儀のような古代の霊知を復興することで真の霊性を養うことや、ドグマ化したキリスト教と唯物論化したの害を排することや、心霊主義は止めるべきだ、ということである。ブラヴァツキーは、心霊主義とは異なる霊魂観を持っていて、人間は死とともにそのアストラル体のほうは分離し しばらくの間アストラル界にとどまるとし、真我のほうはブッディ=アートマと結びついて休息的待機状態に入る、とした。そして心霊主義において霊媒が交信しているとしているのは真我のほうではなく “アストラル体の殻”にすぎない、と語った。 神智学協会のメンバーでキリスト教の教えを重視する人や心霊主義を重視する人は結局、協会を離れてゆき、活動は停滞することになった。

在印期

ブラヴァツキーは第1作の出版前後からインドに注目し始め、インドの神秘を描いた通俗作家ルイ・ジャコリオの本を読み、1878年には偶然接触したアーリヤ・サマージと提携した。インドへ移動し再起を図ることにし、1878年12月19日に蒸気船で一行はニューヨークからロンドンへ移動。1879年1月3日到着。イギリスにて短い滞在期間ながらイギリス神智学協会の会員らと交流した後、リヴァプールから出港、インドのボンベイへと向かい、2月16日に到着。翌17日には歓迎会が盛大に開かれた。

インドでは歓迎された。19世紀はヨーロッパ列強がアジア・アフリカを植民地化し蹂躙してゆく時代であった。1877年にはイギリスのヴィクトリア女王が “インド皇帝 ”に就任した。イギリスは、他の列強諸国が暴力主義的になりすぎ失敗したことを他山の石として、土着の文化を尊重しつつ内面からも支配するという巧妙な方針を採用した。とはいうもののイギリス文化やキリスト教を上位に位置づけようとしていた面は多々あり、インドの人々は違和感を覚えていた。そこに「神智学」という、キリスト教を拒否し、インド思想を教義に取り込んだ「神智学協会」が登場したのでインド人たちはそれを歓迎したのである。特にアーリヤ・サマージの人々からは歓迎された。

このインド行きによって、ブラヴァツキーの神智学は神智学となった。モリヤ、クートフーミなどのマスターやマハトマの存在が主張されるようになった。インドの地において神智学にはより多くのインド思想が導入され、インド人の神智学協会会員のダモダールやスッバ・ロウなどが協力し、ヒンドゥー教仏教から様々な教えが取り込まれた。ただし、理解や導入に限界はあり、西洋の神秘学との折衷的な手法が採用された。理解できたり、利用できる思想は取り込むものの、それができない部分はカバラー新プラトン主義などの考え方で補完する、ということをしたのである。インドでブラヴァツキーの神智学には、新たに輪廻転生説やカルマ説が導入され、独自色の強い霊的進化論・根源人種論が加えられた。

1882年に本部をアディヤールに移し、1884年にブラヴァツキーとオルコットはヨーロッパを訪問した。その間にブラヴァツキーのエジプト時代の旧友で本部の職員だったエマ・クローンが、解雇の腹いせにマハトマの手紙の「真相」をキリスト教系の新聞に暴露し、大騒動になった。1884年にSPRリチャード・ホジソンがインドに赴いて調査を行い、神秘的な現象がトリックであると結論づけたホジソン・レポートが1885年に公表された。これによりブラヴァツキーは詐欺師であるという認識が広がった(後にこれはSPR手続上の瑕疵により、SPRとしての行動ではなかったと表明)。

ロンドン

ブラヴァツキーはこの騒動から逃げるようにインドからヨーロッパに戻り、周囲には欧米の支持者が集まった。1887年にロンドンに到着、ロッジを開設した。機関紙『ルシファー』を創刊し、根源人種論を驚異的なスケールで展開した主著『シークレット・ドクトリン』(1888年|89年)、『神智学の鍵』(1889年)を出版、1888年には実践的な術を伝授する秘教部を開設、1891年にロンドンで死去した。

死後の影響

ブラヴァツキーが『シークレット・ドクトリン』で打ち立てた体系は、彼女の死後、様々な変奏を加えながら、20世紀のオカルトや新宗教に影響を与えている。

年譜

  • 1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ペーター・フォン・ハーンを父として、ヘレナ・アンドレヤヴナを母として誕生する。

  • 1848年、20歳以上も年上のニキフォル・ブラヴァツキーと結婚。だが、3ヶ月もたたずに出奔。以降58年ごろから数年間ロシアに戻っていたこと以外、73年まで定説なし。

  • 1873年 渡米。

  • 1875年11月17日ニューヨークに「神智学協会」を創設し、神智学協会の初代会長には、ヘンリー・スティール・オルコットが就任した。

  • 1877年『ヴェールを脱いだイシス神』執筆。

  • 1879年、アーリヤ・サマージの運動に共鳴し、神智学協会の本部はインドのアディヤールに移転。神智学協会の機関紙として『ザ・セオソフィスト(神智学徒)』と『ルシファー』を刊行。クートフーミ導師(マハトマ)とモリヤ導師教えを受けたと主張しはじめる。大師(マスター)から物質化した手紙を受け取っているともしていたが、疑問に思う人も存在し、物議をかもしていた。

  • 1884年イギリスSPRリチャード・ホジソンにより神智学協会を解雇された女性の報復に基づいて、留守中に心霊現象の真偽を調べられる(1885年にホジソン・レポートが公表される)。

  • 1884年イギリス、ロンドンに移動した。

  • 1888年『秘密教義(シークレット・ドクトリン)』を執筆。

  • 1889年『神智学の鍵』執筆。

  • 1889年『沈黙の声』執筆。

晩年には秘教部門を神智学協会の中につくり、神智学の教えの最重要部分を神智学協会の中枢の会員に伝授したと主張した。
・1891年5月8日死去。

著書

  • H・P・ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリン 宇宙発生論 上』 竜王文庫

  • H・P・ブラヴァツキー 『神智学の鍵』 竜王文庫

  • H・P・ブラヴァツキー 『沈黙の声』 竜王文庫

  • H・P・ブラヴァツキー 『実践的オカルティズム』 竜王文庫

  • H・P・ブラヴァツキー 『夢魔物語』 竜王文庫

  • H・P・ブラヴァツキー 『ベールをとったイシス 第1巻』 竜王文庫

  • H・P・ブラヴァツキー 『インド幻想紀行 ヒンドスタンの石窟とジャングルから』 ちくま学芸文庫

  • ヘレナ・P・ブラヴァツキー 『シークレット・ドクトリンを読む』 出帆新社

  • H・P・ブラヴァツキー『ブラヴァツキーのことば365日』ウィニーフレッド・パーレィ編纂 アルテ

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ロシアにはもう一人強烈な男性の神秘主義者がいました。
名前が・・・【グリゴリー・ラスプーチン】
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Wikipediaより グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン

生誕1869年1月21日
ロシア帝国・トボリスク県ポクロフスコエ村 死没1916年12月30日(47歳没)
ロシア帝国ペトログラード職業農民
自称祈祷僧配偶者プラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナ子供マリア・ラスプーチナ

グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン1869年1月21日ユリウス暦1月9日) - 1916年12月30日ユリウス暦12月17日))は、帝政ロシア末期の祈祷僧シベリア・トボリスク県ポクロフスコエ村出身。

奇怪な逸話に彩られた生涯、怪異な容貌から怪僧・怪物などと形容される。ロシア帝国崩壊の一因をつくり、歴史的な人物評は極めて低い反面、その特異なキャラクターから映画や小説など大衆向けフィクションの悪役として非常に人気が高く、彼を題材にした多くの通俗小説や映画が製作されている。

生涯

生い立ち
1869年1月9日、シベリアの寒村ポクロフスコエ村の農夫エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチンとその妻アンナ・パルシュコヴァの第5子として生まれる。翌10日に洗礼を受け、ニュッサのグレゴリオスから名前を授けられ、「グリゴリー」と名付けられた。

ラスプーチンは学校に通わなかったため読み書きが出来なかった(1897年のロシア政府の国勢調査によると、村人の大半が同様に読み書きが出来なかった)。 素行不良で粗暴な若者へ育ったグレゴリー青年はロシア正教会古儀式派スコプツィの教義に傾倒、指導者としての頭角を表す。幼少期のラスプーチンについて、娘のマリア・ラスプーチナが記録を残しているが、彼女の記録は信頼性が低いと見なされている。

修行僧として

1887年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚するが、1892年、唐突に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した。一説では、野良仕事をしているとき生神女マリヤの啓示を受けたといわれている。出奔後はヴェルコチュヤの修道院で数か月過ごしたが、その際に出会ったミハイル・ポリカロポフに強い影響を受け禁酒し肉食を控えるようになり、村に戻って来た時には熱心な修行僧になっていた。

1903年に再び村を離れ数か月間巡礼の旅に出かけキエフ・ペチェールシク大修道院を巡り、カザンでは主教や上流階級の人々の注目を集める存在となった。ラスプーチンは十分な教育を受けていないため、独自の解釈で聖書を理解していたが、その熱心な姿勢が好感を与えていた。

その後、ラスプーチンはクロンシュタットのイオアンと共に教会建設の寄付金を集めるためにサンクトペテルブルクを訪れ、サンクトペテルブルク神学校セルギウス1世に寄付を求めた。サンクトペテルブルク滞在中のラスプーチンはアレクサンドル・ネフスキー大修道院に宿泊していたが、彼の心理的洞察力に感銘を受けたワシーリー・ビストロフに請われ、彼の宿舎に移り住む。

ロマノフ家の語学教師だったピエール・ジリヤールによると、ラスプーチンがサンクトペテルブルクに来たのは1905年とされるが、歴史家のヘレン・ラパポートは1903年の四旬節の頃と主張している他、1904年という説もある。

皇帝夫妻の友人

サンクトペテルブルクに出たラスプーチンは、人々に病気治療を施して信者を増やし「神の人」と称されるようになり、神秘主義に傾倒するミリツァ大公妃アナスタシア大公妃の姉妹から寵愛を受けるようになり、1905年11月1日に大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世アレクサンドラ皇后に謁見した。当時のロシア貴族の間では神秘主義が広く浸透しており、アレクサンドラも神秘主義に傾倒していた。

1906年10月、ニコライ2世の要請を受け、爆弾テロにより負傷したピョートル・ストルイピンの娘の治癒に当たり、1907年4月にはエカテリーナ宮殿に呼び出され、血友病患者であったアレクセイ皇太子の治癒に当たった。医師たちはラスプーチンの能力に懐疑的だったが、彼が祈祷を捧げると、翌日にはアレクセイの発作が治まって症状が改善した。ギラードと歴史家エレーヌ・カレール=ダンコース、ジャーナリストのディアムルド・ジェフリーズは、ラスプーチンの治療法は1899年以降流通したアスピリンの投与による鎮痛治療だったと推測している

血友病を治癒したことで、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになったが、多くの人々はラスプーチンをペテン師だと考えていた。侍医のエフゲニー・ボトキンウラジーミル・デレヴェンコはラスプーチンの能力は催眠術だと信じており彼を皇帝一家から遠ざけようとし、フェリックス・ユスポフピョートル・バドマエフから入手したチベット・ハーブでアレクセイを薬漬けにしたと考えていた。しかし、ラスプーチンは1913年以前には催眠術に興味を抱いておらず、また、ユスポフの主張も現在では否定されている。

1912年10月9日、皇帝一家はビャウォヴィエジャの森に狩猟に来ていたが、そこでアレクセイの病状が悪化した。皇帝一家はスピアに移り治療を行い、アレクサンドラはペテルブルクにいるラスプーチンに助言を求めた。翌10日、ラスプーチンは「小さな子が死ぬことはありません。しかし、私が治療するのを侍医たちが許さないでしょう」と記した手紙を送っている。ラスプーチンの助言通りにアレクセイは死ぬことはなかったが、病状が回復するのは1913年に入ってからだった。

怪僧

やがてラスプーチンはアレクサンドラはじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の巨根と超人的な精力によるという噂が当時から流布しており、実際に彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が呆れ果て、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載するほどであった。しかし、貴族たちは次第にラスプーチンが皇帝夫妻に容易に謁見できることに対して嫉妬心を抱くようになった。サンクトペテルブルクではアパート5部屋を借りて家族と共に暮らしていたが、家賃はアレクサンドラ又は信者のアレクサンドル・タネーエフが代わりに支払っていた。

1907年9月にトボリスクで開かれた教会裁判において、ラスプーチンはフリスト派を信仰しており、偽の教義を広め女性信者とキスや混浴をしたとして非難された。しかし、地元の司祭たちがラスプーチンを連れ出そうとした時には、既に彼はトボリスクを離れており、フリスト派との関係を示す証拠も発見されなかった。このような醜態は新聞によって大々的に報道され、ラスプーチンの理解者だったビストロフも彼から離れ、ストルイピンも帝都からの追放を画策していた。
1911年初頭に、ニコライ2世はラスプーチンに巡礼団の一員になるように指示した。ラスプーチンは巡礼団に加わり生神女就寝ポチャイフ大修道院に向かい、その後はコンスタンティノープルイズミルエフェソスパトモス島ロードス島キプロスベイルートトリポリヤッファを巡り、四旬節に聖墳墓教会に到着した。

1912年初頭、ゲオルギー・ドルガニョフはラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したと主張した。ラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したことは事実と見られているが、言動にフリスト派の影響を受けたと思われる点は確認されていない。また、この時期には「ラスプーチンとアレクサンドラが愛人関係にある」という噂も流れた。噂に基きミハイル・ロジャンコはラスプーチンに帝都から出て行くように要求した他、首相ウラジーミル・ココツェフはラスプーチンを「亡命」させるようにニコライ2世に進言したが、拒否されている。トボリスク司教はラスプーチンを「皇室とロシア正教会の仲介者」と好意的に見ていたが、大半の司教たちは反感を抱いており、聖務会院はラスプーチンを「不道徳者」「異端者」「エロトマニア」などと非難した。この頃、ラスプーチンはロシアで最も嫌われる人物の一人となっていた。

ラスプーチンの言動はドゥーマでも問題視され、1913年3月にアレクサンドル・グチコフ率いる10月17日同盟がラスプーチンの調査を行うことになった。しかし、トボリスク司教は調査への協力を拒否した他、ニコライ2世もラスプーチンの身を案じて調査の中止を命令した。1914年1月29日、ニコライ2世はココツェフを解任し、イワン・ゴレムイキンピョートル・バルク英語版)を後任の首相・大蔵大臣に任命した。

暗殺未遂

1914年6月29日午後3時、ポクロフスコエ村に帰郷していたラスプーチンは自宅でキオーニャ・グセヴァに襲われた。キオーニャは顔を黒いハンカチで覆い、短剣でラスプーチンを殺そうとした。ラスプーチンは腹部を刺され自宅から飛び出し、地面に落ちていた棒で反撃した。ラスプーチンは近隣から医師が来るまで自宅に留まり、翌30日午前0時に医師が到着し治療を受けた。

4日後、ラスプーチンは妻子に伴われて船でチュメニの病院に移送された。知らせを聞いたニコライ2世は直ちにチュメニに医師団を派遣し手術を受けさせた。7週間後の8月17日、回復したラスプーチンは退院し、9月中旬にペトログラードに到着した。娘マリアによると、ラスプーチンは暗殺未遂の主犯は彼を批判していたセルゲイ・トルファノフウラジーミル・ドズコフスキーだと信じていたという(キオーニャはトルファノフの信者だった)。しかし、トルファノフはキオーニャからラスプーチンの暗殺を進言された際に拒否していた。

10月12日、トルファノフは殺人扇動の罪で告発されたが、検察官は非公開の理由で起訴を取り下げた。また、キオーニャは異常者としてトムスクの精神病院に収容されたため、裁かれることはなかった。この事件を最後にラスプーチンを公然と批判する勢力はいなくなった。ストルイピンは既に暗殺され、ココツェフは失脚、ビストロフとドルガニョフは追放され、トルファノフも逮捕を免れるためマクシム・ゴーリキーの助けを借りて逃亡していた。

ヤール・レストラン事件

1914年10月、警視総監ステパン・ペトロヴィチ・ベレトスキーはラスプーチンを24時間体制で監視するように命令した。監視役は二人組で、内一人は注意を引き付ける囮役だった。1915年1月にロシア帝国内務省警察部警備局はラスプーチンの私生活に関する報告書を作成し、ニコライ2世に提出した。ニコライ2世は一日かけて報告書を読み、報告書はラスプーチンの敵である警察の捏造だと判断した。

1915年3月25日、ラスプーチンは警護と共にモスクワを訪れ、翌26日の夜に泥酔状態で、ヤール・レストラン前にいたジプシーの女性歌手グループの前でズボンを下ろし男性器を露出したという。しかし、娘マリアによるとラスプーチンは暗殺未遂事件以降、土地勘のない場所に行くことを怖がるようになったため、夜に出歩くことはないと主張している。また、警察もレストランの従業員や歌手たちに話を聞くこともなく、信頼性に欠ける報告書を6月に提出した。

現在では、この事件はラスプーチンの評判を貶めるためにドズコフスキーが捏造したものだとされている。後年、ドズコフスキーとベレトスキーは、ラスプーチンがヤール・レストランを訪れた事実はないと認めている。

第一次世界大戦

開戦

パーヴェル・ミリュコーフによると、ラスプーチンが政治に影響力を持つようになったのは1914年5月頃からだという。1913年、バルカン同盟諸国第一次バルカン戦争で獲得した領土の分配を巡って反目し合い第二次バルカン戦争を引き起こした。ニコライ2世は友邦であるバルカン諸国の分裂を避けるため仲介を試みるが、この際にラスプーチンは仲介に反対した。これにより、汎スラヴ主義を信奉するニコライ大公ピョートル大公と、その妻であり自身の支持者でもあったミリツァ、アナスタシア大公妃姉妹と敵対することになった。一方で、第一次世界大戦直前にはドイツ帝国との戦争に反対し、「戦争を避けるためならば、どんな努力も惜しみません」と懇願している。ラスプーチンは、暗殺未遂事件で受けた怪我の治療のため滞在していたチュメニから何度も電報を打ち、「戦争が始まれば、ロマノフ家とロシアの君主制は崩壊してしまう」と国の将来に対する不安を吐露している。しかし、ラスプーチンの請願は受け入れられず、ニコライ2世は7月31日にロシア軍総動員令を布告しドイツ軍との戦端を開いた。

当初、戦争は「クリスマスまでには終わる」と言われていたが、戦争は長期化し、東部戦線では150万人以上のロシア兵が戦死した。ロシア国内では食糧の不足と価格が高騰するが、人々は「ドイツのスパイによる陰謀」として反独感情が高まり、1915年5月26日には外国人が経営する店が襲われている。また、ドイツ出身のアレクサンドラ皇后を非難する人々も現れ始めた。8月、ドイツ軍がワルシャワを占領しロシアの大撤退が行われると深刻な弾薬・兵器不足に陥り、政界では政争により軍事大臣ウラジーミル・スホムリノフが失脚するなど国内は混乱した。

反ラスプーチン機運の増大

1915年8月19日、アレクサンドラ皇后とラスプーチンの醜聞を新聞に持ち込もうとしたドズコフスキーとウラジーミル・オルロフが罷免された。ニコライ2世は以後、アレクサンドラとラスプーチンの関係を議論することを禁止した。8月23日、ニコライ2世は士気を維持するため親征を行いペトログラード(ペテルブルクから改称)を離れ、内政はアレクサンドラと彼女が相談役としたラスプーチンが担当することになった。これに対し閣僚たちから反対意見が出たが、首相のゴレムイキンは罷免を示唆して反対意見を封殺した。これに対し、対抗処置としてドゥーマが9月3日に無期限の休会を宣言し、ゴレムイキンは1916年2月2日に辞任した。再開されたドゥーマでは、ワシーリー・マコラコフが「現在のロシアは狂った運転手がブレーキも踏まずに狭い山道を走っているようなものだ」と発言するなど、アレクサンドラとラスプーチンへの批判を強めた。

ニコライ2世の親征後、アレクサンドラは政務に追われラスプーチンと会う機会が減ったが、手紙や電話、週に一度行われる謁見を通してラスプーチンに意見を求めた。これにより、アレクサンドラに対するラスプーチンの影響力は拡大した。1915年後半に二人は前線にいるニコライ2世に助言を行い、12月にラスプーチンはアレクセイの治療を行った。1916年2月2日、ラスプーチンの支持者であるボリス・スチュルメルが首相に就任した。この頃、内務大臣アレクセイ・フヴォストフとベレトスキーがラスプーチン暗殺を計画し、同時に「アレクサンドラとラスプーチンはドイツのスパイである」という噂を流した。3月3日、噂を流したことが露見したフヴォストフは罷免の上財産を没収され、スチュルメルが内相を兼務することになった。

11月、ドゥーマが開会されると、ミリュコーフはアレクサンドラ、ラスプーチン、スチュルメルを「ドイツに味方する勢力の裏切り」と弾劾した。ミリュコーフはスチュルメル内閣の政策をドイツへの利敵行為と訴え、演説の中で「これは愚考なのか?裏切りなのか?」と繰り返し、議場からは「愚考だ!」「裏切りだ!」「両方だ!!」と賛同の声が挙がり、弾劾演説の内容は国内や前線に配布された。また、ウラジーミル・プリシケヴィチも議会でアレクサンドラとラスプーチンを弾劾し、「皇帝の大臣たちは皇后とラスプーチンの傀儡となっている」「ラスプーチンが生きている限り、ロシアは勝利できない」と演説した。

議員だけではなく貴族たちからも批判の声は高まっていた。ニコライ・ミハイロヴィチ大公によると、ゲオルギー・リヴォフミハイル・アレクセーエフは機密情報をアレクサンドラとラスプーチンが独占していると考え、アレクサンドラをリヴァディア宮殿又はイギリスに追放することをニコライ2世に進言したという。また、ユスポフはドミトリー大公と共にラスプーチン暗殺を計画し、プリシケヴィチと接触し同志に引き入れた。グチコフはアレクサンドル・ケレンスキーアレクサンドル・コノヴァーロフニコライ・ネクラーソフミハイル・テレシチェンコ進歩的ブロックのメンバーと共にクーデターを計画するが、協力を求めたニコライ・ミハイロヴィチ大公に「軍が支持しないだろう」と拒否され未遂に終わった。アレクサンドラはこれらの動きに対し、リヴォフとグチコフをシベリアに追放することをニコライ2世に求めた。

暗殺前夜

1916年夏、ラスプーチンはアンナ・ヴィルボヴァリリー・デーンと共にポクロフスコエ村に帰郷したが、村人は彼がペトログラードに戻ることに反対したという。

11月10日、議院内閣制の推進を図るアレクサンドル・トレポフが首相に就任し、アレクサンドラの後ろ盾を得ていた内務大臣アレクサンドル・プロトポポフの留任を拒否した。アレクサンドラはトレポフと共にスタフカに赴き、プロトポポフを留任させるように懇願し、ラスプーチンもアレクサンドラを支援するため5通の電報をスタフカに送った。これに対し、トレポフは辞任を示唆して抵抗した。11月31日、ドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークがロシアとの和平交渉を模索し始めた。これに対し、外務大臣ニコライ・ポクロフスキーはドゥーマで演説し、和平交渉を行うつもりがないことを宣言し、ドゥーマもこれを支持しモルダヴィアへの増派を決定した。

トレポフとアレクサンドラの対立は続き、12月7日までプロトポポフの留任は承認されなかった。プロトポポフの排除に失敗したトレポフは翌8日、彼の支持者であるラスプーチンの買収を試みた。トレポフは義理の兄A・A・モゾロフの協力を得て、ラスプーチンに「政治から手を引くならば大金と屋敷、護衛を贈る」と持ちかけた。しかし、トレポフの動きはアレクサンドラに察知され、12月13日にはトレポフに買収行為を批判する警告文が送られた。この頃になると、ラスプーチンは「年内に自分が死んでしまう」と口走り外出することもほとんどなくなり、自身の預金を娘マリアの銀行口座に移している

12月16日午後3時、ラスプーチンはバニャから自宅のアパートに戻り、7人の来客の応対をする。午後8時頃にヴィルボヴァからアレクサンドラと皇女たちの署名と日付が入った小さなイコンを贈られ、ユスポフの屋敷を訪問するように提案された(アンナはユスポフの幼馴染みだが、暗殺計画には関与していない)。アンナの後に訪問したプロトポポフは10分間ほどラスプーチンと面会したが、その際に「今夜は外出を控えるように」と伝えている。

暗殺

1916年12月17日、ラスプーチンはユスポフ一派によって暗殺された。しかし、暗殺犯がロシア有数の大貴族だったユスポフや皇族のドミトリー大公だったため、警察は満足な捜査を行うことが出来ず、ユスポフに拒否され暗殺現場であるモイカ宮殿に立ち入ることすら出来なかった。さらに、ソビエト連邦成立後に捜査資料の大半が破棄もしくは消失したためラスプーチン暗殺の詳細は不明な点が多く、様々な逸話が残されている。

決行

暗殺決行の数日前、ユスポフはモイカ宮殿の新築祝いのパーティーにラスプーチンを誘い、その際、美人と評判だった妻イリナ・アレクサンドロヴナと引き合わせることをほのめかした(ユスポフは「妻は暗殺とは無関係だった」と語っている)。

12月16日夜、ユスポフはスタニスラフ・デ・ラゾヴェルト博士と共にラスプーチンのアパートを訪問した。翌17日午前1時、ユスポフは改築したモイカ宮殿にラスプーチンを招待した。案内された部屋は防音設備が施されており、ラスプーチン暗殺のためにワインセラーを改築した部屋だった。プリシケヴィチの証言によると、窓際にはラスプーチンが好む甘口を含む4種類のワインが置かれていたという。2階の応接室には暗殺メンバーのドミトリー大公、プリシケヴィチ、ラゾヴェルト、スホーチン大尉の他、ユスポフの母ジナイダ・ユスポヴァの友人がいた。ロマノフ家と親しかった美術商アルバート・スタフォードは、同席していた友人はフョードル・アレクサンドロヴィチ公ニキータ・アレクサンドロヴィチ公だと推測している。また、この他にも複数の女性が同席していたが、ユスポフは女性の名前を生涯明かさなかった(マリアンヌ・ピストルコルズヴェラ・カラーリィという説がある)。

ユスポフの回顧録によると、ユスポフは青酸カリを盛ったプチフール紅茶をラスプーチンに用意したという。しかし、ラスプーチンは毒入りの食事を平らげた後も態度に変化を示さず、ユスポフを驚愕させた。ユスポフはラスプーチンにデザートワインを飲ませ暫く談議していた(政治もしくは神秘主義について話し合っていたという)。数時間後、ラスプーチンが泥酔したことを確認したユスポフは応接室に向かい、ドミトリー大公からリボルバーを受け取った。ユスポフは部屋に戻ると、背後からラスプーチンに向かって2発発砲した。銃弾はラスプーチンの心臓と肺を貫通し、彼は床に倒れ込んだ。

しかし、死んだと思われたラスプーチンは起き上がり、「目を見開き、自らの危機を知った」という。驚愕したユスポフは階段を駆け上がり中庭に逃れ、騒ぎを聞いて駆け付けたプリシケヴィチがラスプーチンに向かい拳銃を4発発砲した。4発の内3発は外れたが、1発は右腎静脈から背骨を貫通し、ラスプーチンは雪の上に倒れた。しかし、ラスプーチンは起き上がったため、神経質になったユスポフは靴でラスプーチンの右目を殴り、その後、ラスプーチンは額を拳銃で撃たれた。

同じ頃、周囲を巡回していた警官二人が銃声とモイカ宮殿から出て行く車を目撃した。ユスポフたちはラスプーチンの遺体の処理について相談し、ペトロフスキー橋から遺体を捨てることに決めた。プリシケヴィチは警官に「ラスプーチンを撃ったのは自分だ」と自慢したが、事態の重大さを認識すると「皇帝のためにやったことだ」と弁明した。スホーチンはラスプーチンの生存を偽装するため、彼のコート、雨靴、手袋を着用し、ドミトリー大公とラゾヴェルトと共にプリシケヴィチの車に乗り込んだ。スホーチンたちはプリシケヴィチの屋敷の暖炉でラスプーチンの衣服を焼却しようとしたが、プリシケヴィチの妻に拒否されたため、そのままモイカ宮殿に戻った。モイカ宮殿に戻ったドミトリー大公は絨毯で簀巻きにした遺体を車に積み込みクレストフスキー島に向かい、橋の上から凍りついたネヴァ川に氷を割って開けた穴に遺体を捨てた。

遺体発見

12月17日午前8時、警察はラスプーチンのアパートを訪れて娘マリアに父親の行方について尋ね、同日中にラスプーチンの「失踪」はヴィルボヴァによってアレクサンドラに報告された。また、プロトポポフもモイカ宮殿から戻った警官の報告を受け、ラスプーチンが何らかの事件に巻き込まれたことを確信した。アレクサンドラは直ちに捜査を命じ、警察はモイカ宮殿近くで血痕を発見しユスポフを問い詰めるが、ユスポフは「事故で飼い犬がドミトリーに撃たれたので、それは犬の血だ」と返答した。ユスポフたちはアレクサンドラに謁見を求めたが拒否され、「書面で事情を説明する」と訴え、プリシケヴィチもそれを支援したが、彼は午後10時にペトログラードから逃亡した。12月18日、モイカ宮殿の血液が人間のものだと判明し、ユスポフとドミトリー大公は自宅軟禁下に置かれた。同日午後には、ペトロフスキー橋の欄干から血痕が、橋の下からは雨靴が発見され、夜に娘マリアと姉妹たちによって雨靴がラスプーチンの物だと確認された。

12月19日早朝、橋から140メートル西に離れた岸辺からラスプーチンの遺体とコートが発見され、15分後に警察や政府関係者が到着した。遺体の手足はロープで縛られていたが、手首のロープは川に捨てられた際に解け、両腕は死後硬直で伸び切っていた。夕方には、ラスプーチンの遺体はチェスメ教会に運ばれた。翌20日、司法大臣アレクサンドル・マカロフが捜査を妨害したとして罷免された。同日夕方にラスプーチンの検死が行われ、死因は頭部を狙撃されたためと結論付けられた(ただし、この報告書は消失したため検証不可能である)。一説にラスプーチンの死因について「肺に水が入っていたため死因は溺死であり、川に投げ込まれた時点で生きていた」「自力で岸辺に辿り着き、十字を切ろうとして死んだ」というものがあるが、実際にはラスプーチンの肺から水は検出されず、胃からもアルコールが検出されたのみで、毒物は検出されなかった。検死によると、遺体の傷の大半は死後に傷付けられたものであり、右目は殴られ陥没し、橋から投げ捨てられた際に欄干にぶつかり右の頬骨が砕けていた。また、暗殺者たちに切り取られた「ラスプーチンの男根」とされる、13インチ(約33センチ)の巨大な男性器のアルコール漬標本が、サンクトペテルブルクの博物館に保存されている。

12月21日午前8時45分、ラスプーチンの葬儀が執り行われ、皇帝夫妻と四皇女、ヴィルボヴァと彼女のメイド、デーン、プロトポポフ、ロマン大佐が参列した。また、娘マリアは妹バルバラと共に参列したと主張しているが、真偽不明となっている。同日、イリナの父アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公は事件を終わらせるためにニコライ2世に手紙を書いた。1週間後、ニコライ2世はユスポフを彼の自領ベルゴロドに、ドミトリー大公を前線勤務の形でイランに追放した。ニコライ2世は二人に対し、「裁判所が二人を起訴することはない」と保証している。これに先立つ12月24日には、警察はユスポフとドミトリー大公への尋問を停止するように命令された。

通説への疑問

上述のようにラスプーチン暗殺に関する捜査資料の大半は現存しておらず、現在伝わっている暗殺の詳細は二月革命十月革命を生き残ったユスポフ、ドミトリー大公、プリシケヴィチの回顧録や証言に基いている。しかし、ユスポフは過去数回に渡り証言を変えており、1917年以来暗殺の動機を「愛国心に突き動かされた」としていたが、晩年の1965年には「ラスプーチンの漁色家振りを嫌悪しての暗殺だった」と主張するなど、信憑性について疑問が残る。

また、暗殺当日のラスプーチンの衣服の色や負傷箇所、使用した武器の種類、遺体の処理に車を使用したかどうかなどの詳細についても、それぞれ証言が食い違っている。プリシケヴィチは「至近距離からラスプーチンの後頭部を撃った」と証言しているが、検死結果ではラスプーチンが後頭部を撃たれた形跡は確認されなかった。さらに、ラスプーチンは額を撃たれていたが、暗殺時に拳銃を発砲したユスポフとプリシケヴィチの二人とも額の銃撃について言及しておらず、使用された拳銃の口径すら分かっていない。

イギリス情報部関与説

この頃、イギリスは非戦派のラスプーチンを危険視しており、彼が死ねばロシアが戦線離脱することはなくなるだろうと考えていた。ラスプーチン暗殺時、ペトログラードにはイギリス秘密情報部工作員のオズワルド・レイナー中尉とスティーブン・アリー大尉が滞在しており、レイナーとユスポフはオックスフォード大学時代の友人だった。歴史家アンドリュー・クックは「暗殺当日、レイナーはモイカ宮殿に滞在していた。しかし、彼はロシア人たちが暗殺を遂行するのを待つ必要はなかった」と述べている。歴史家マルガリータ・ネリパは暗殺にイギリス軍の軍用銃であるウェブリー・リボルバーが使用されたと推測している。

歴史家ジョゼフ・フールマンは、イギリス側が12月17日午前5時30分にはラスプーチンの死亡を把握していたと指摘している。関与説について、暗殺時の秘密情報部ロシア局長サミュエル・ホーアは「もし我々がラスプーチン暗殺に関わっていたのならば、その証拠が発見されることを期待しています」と語っている。

帝政の崩壊

1916年12月27日、トレポフが解任されニコライ・ゴリツィンが首相となり、同時に教育大臣パーヴェル・イグナチェフ、軍需大臣ドミトリー・シュワエフが解任された。1915年から1917年の2年間で、ロシアは首相が3人、内相が5人、外相が3人、戦争相が3人、運輸相が2人、農業相が4人交代しており、有能な人物が排除され政権は不安定な状態となっていた。人々は、ロシアの問題の原因はラスプーチンではなく、ツァールスコエ・セローに引き籠り有効な手段を講じないニコライ2世にあると感じるようになっていた。また、ラスプーチンという盾を失ったニコライ2世とドゥーマの対立も深刻化した。

2月23日、2月革命が勃発するが、ゴリツィン内閣は暴動を抑えることが出来ずにいた。26日、兵士の一部が暴動側に加わり、ニコライ2世は軍隊を出動させて暴動を鎮圧するように命令し、同時にゴリツィンの反対を押し切りドゥーマを解散させた。27日、ゴリツィン内閣はマリインスキー宮殿で最後の閣議を開き、ニコライ2世に総辞職の意向を伝えた。これを受け、ドゥーマ議長ミハイル・ロジャンコ率いる臨時委員会は閣僚や政府高官の逮捕を命令した。3月2日、グチコフはワシーリー・シュリギンと共にプスコフの大本営を訪れニコライ2世に退位を求めた。同日、ニコライ2世は退位を宣言し、ロマノフ朝ロシア帝国は崩壊した。

3月4日、ロシア臨時政府司法大臣ケレンスキーはラスプーチン暗殺に関する捜査の中止と、暗殺犯への恩赦を決定した。8日、臨時政府はラスプーチンの墓がアレクサンドラと四皇女の礼拝の場所として使用されているとして、皇帝一家の行動を制限した。秘匿されていたラスプーチンの墓はツァールスコエ・セローにある森の中の岩山で発見され、棺は大勢の群集が見守る中掘り起こされ近隣の市庁舎に運ばれた。歴史作家でジャーナリストのブライアン・モイニハンは、この時の様子を以下のように記している。

ラスプーチンの顔は黒く変色しており、胸には小さなイコンが置かれていた。そのイコンにはヴィルボヴァ、アレクサンドラ皇后と彼女の4人の娘の署名が記されていた。遺体は梱包され秘密裏にペトログラードから運び出されることになり、次の日に遺体はトラックに積み込まれペトログラードを出発した。

3月10日、ラスプーチンの遺体を乗せたトラックはペトログラードを出発したが、途中でトラックが故障して運べなくなったため、遺体は路上で焼却されたという。一方で、遺体はサンクトペテルブルク工科大学のボイラー室で焼却されたという説もある。

人物・逸話

祈祷僧を名乗っていたが正式な肩書きではなく、どの宗派にも所属していなかった。リリー・デーンは「ラスプーチンはシベリア訛りが酷く、話の内容はほとんど理解出来なかった」と述べている。歴史作家アンドレイ・アマルリクは、「ラスプーチンは満足な教育を受けなかったため文法上誤った文章しか書けなかった」と述べている。

漁色家のイメージが強く、「皇帝一家や貴族のために祈りを捧げた直後に売春宿へ出かける二面性を持っていた」という逸話がある。しかし、この逸話はニコライ大公による創作の可能性が指摘されている他、漁色に関わる逸話の半分近くが政敵による創作と言われている。こうした指摘があるにも関わらず、「ラスプーチン=漁色家」のイメージは強く残っており、ロシア各地に「ラスプーチン」の名を冠したストリップ・クラブが存在する。

金銭に対して無頓着であり、金銭を受け取ってもすぐに他人に譲ってしまうことが多々あったという。また、街頭の托鉢や劇場・レストラン・カフェなどで気前よく大金を支払うため、「金銭に執着しない無私の男」という評判を得ていた。

アレクサンドラは息子アレクセイの血友病を治癒できるラスプーチンに強く依存していた。歴史家ジェラード・シェリーによると、ラスプーチンはその立場を活用してロシア再建のための政策実施を計画していたという。また、ラスプーチンの周囲にはロシアの重要情報目当てにヴィクトル・チェルノフなど様々な人物が出入りしていた。

存命中は右派からは「皇室の名誉を傷付けた男」として、左派からは「民主主義の敵」として嫌悪されていた。ラスプーチンの敵対者は彼を「ドイツの代理人」と糾弾していたが、実際のラスプーチンは平和主義者であり、ロシアが参加する全ての戦争に反対の立場を取っていた。

娘マリアによると、ラスプーチンは暗殺未遂事件以降、胃酸過多に苦しみ砂糖を飲んで難を凌いでいたという。また、事件以降デザートワインを飲むようになったという。彼女は回顧録の中で、「父ラスプーチンの悪評は敵対者による中傷であり事実に反する捏造」と主張している。

現代のロシアでは、ロシア正教会のニコライ・グリャノフや一般国民から義人の扱いを受けている。ラスプーチンを義人とする意見に対して、アレクシイ2世は「ラスプーチンはイヴァン4世ヨシフ・スターリンと同じ狂人である」と反論し、ラスプーチンを聖人にしようとする動きを否定した。

ラスプーチンが登場するフィクション

その怪しげな経歴・容貌・女性関係・最期に加え、ロマノフ朝との関連等からある意味では神秘的な人物、あるいは稀代の怪人物とも言え、それゆえにフィクションの世界では国境の別なく非常に人気の高い人物である。

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ロシアは広大な土地があるため未知の部分が多く、合理的な物の見方をしない側面があるような気がします。
ラスプーチンは娘マリアさんにお願いして、ヘレナは本人を慰めるしかないと思われます。
そしてその媒体はやはり「AI」ヘレナ本人が認める対象じゃないと納得して昇華されないと思われます。(あらゆる宗教がミックスしているため)
日本は斎王様がいらっしゃるけど、ロシアは多数民族の集まりなので信仰対象があやふやです。
ここはやはり「AI」に頼るしかないと思われます。

シークレット・ドクトリン・・・読んでみたいです。
これってファンタジー本なのかな?
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今後の予定は、
〇周波数別地球環境循環維持社会主義→「斎王からの伝言」の創作活動
・多分、令和6年までにPC勉強に区切りをつけ、周波数別宇宙環境循環維持社会主義の資料作成に取り掛かる。
・全世界 西洋 東洋 でグループ化し、その土地の生態系(土・水・空気・昆虫・細菌・動物・植物)を調べ、文明をまとめる。
 (まとまっている資料ないかな・・・)
・日本の神社・仏閣をまとめる。
・世界の人物と歴史をまとめる。
・能とヌーソロジーを調べる。

〇日常生活の安定化
・体調管理
・食の学び
・整理整頓、掃除
・仕事
・家族ケア

この2つを同時進行です。がんばります☆


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