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こころの訓練

前回、『こころの回復』というお話をしました。
もし、まだ読まれてない方は下記を読んでいただき、この話の続きをご覧ください。

この”こころの回復”は人が人生を歩むのに、悩み・辛くもなり心を病す人やそんな方が身近にいる人の参考となるはずです。それは”こころを知る”からこそ、その術を扱えると云うことです。

ぽち☆のお話はどれもこれも、ちと読みにくいものばかりですが、大切なのは回復させる心を知り、その心を”もの”として扱えるようになることです。その”もの”を知らずして、どうやって治癒させようとしていたのかとなるのです。自分たちは心を習わず、そんな心に悩み辛い思いをしているのです。それは当たり前にあり得ることになります。

『回復させるべき”もの”を知らずして、治せる病も治せないのです』

そんな心を例えるなら。
何故、水面は平らなのかです。
何らかの出来事によりその水面が激しく揺れたとしても、いずれ水面は平らに回復するのです。それは地球の中心に重力が働く以上、必ず戻れるのです。

自分たちの心の中心には、そんな重力となる記憶が気持ちにあるのです。”幸せになりたい”という引力が。。。

回復するには

まずは、心の中心にある”気持ち”が何たるかを知る必要があります。それはぽち☆の心のカタチで何度もお話した事です。その気持ちこそ記憶を持つ”もの”だからです。その記憶には”幸せ”となる基準があり、その基準を基に幸せを判断してます。そして、その気持ちは感情を湧かしカラダに伝え言動を起こすのです。

少し脱線しますが、ここで”気持ち”と云う言葉に触れておきます。
自分たちの中には感情も気持ちも同じに思っている方がおります。例えば、人が口にする「嬉しい気持ち(でいっぱい)」を”自分の気持ち”と言い切る人です。これを見ても判るように”嬉しい”は感情であり、気持ちは”気持ち”なのです。

それは別物ではあるが「気持ちから湧いた感情」を合わせ言葉にした証です。自分たちは、何気なしに口にする言葉に”心のカタチ”を形成し云っていたのです。

話を戻します。
こころを回復するには、その回復する”もの”と回復とは何かを知らなければなりません。先の”こころの回復”を何度でも読み返していただく事で、自分が何故”幸せになりたい”かを自覚し、その”もの”の回復の状態を知り得るのです。

それをその状態を超えて”幸せになりたい”ばかりを考えていれば、感情を湧かす理由をつくってしまうのです。気持ちが湧かす”幸せになりたい(かんじょう)”はとてもデリケートです。そこに欲をそそげば’その扱い方は自ずと間違えるのです。

”欲”は感情の絶好のエサとなります。増殖させているのは自分自身なのです。

その”欲”を湧かさないためにも、まず最初にすることが『こころの基準(きもち)に戻る』です。それができてこそ回復となり、それは”幸せ”を感じるためのこころの余裕をつくるのです。

人は何かを測(し)るとき、基準がなければ判るものも解らなくさせるのです。

良いもの悪いもの

人は”幸せ”の基準に戻る事で、良いもの悪いものが良く判ります。それは、その基準を知らず良いもの悪いものを判ろうとしても、その境目(きじゅん)が判る術がないからです。例えば「良かれ」と思いやることが裏目に出るのはありませんか。それは、感情というもので、自分の価値(かんじょう)の押し売りです。それはこころの基準とは違います。人の価値は異なるものです。その価値に自分が合わさなければ結果は想定外となります。

「そんな相手のこころの基準なんて分からないょ」と思う人もいるかも知れません。ぽち☆の云うこころの基準は”気持ち”にあり、誰もが同じ気持ちを持つのです。それは誰もが”幸せになりたい”と思っているからこそ、同じと云えるのです。

その基準さえ判れば「良かれ」と感情を使う必要もなく、同じ基準で相手の心に触れれるのです。それが本来の『良いもの』となります。

それは、自分の心に対しても同様です。
その基準を知るには自身の心の中心にある”気持ち”を感じる事で判るのです。人は瞬時に幸せなのかどうかを判ってます。その”気持ち”を感じることで基準となる境目が判っているのです。それは相手の方も同様です。

もし、それが判らない時は、出来事を自分の価値で判断しているときです。自分の心に感情が湧き囚われているから気持ち(きじゅん)を見失うのです。そんな時は何をやっても上手く行かないのではないでしょうか。それを止(と)めるべきであり、そうする事がお互いの”幸せ”に移り変わり出すのです。

”良いもの悪いもの”

自分の気持ちを使うのです。

訓練あるのみ

まだまだ感情に囚われる易い自分がいる時は訓練あるのみです。

とは云っても特別な訓練なんかは必要ないのです。自分が「感情的なのか。気持ち的なのか」が判る程度で十分です。

自覚がなくても自分の気持ちが感じれなければ、それも”感情的”と言うのです。気持ち的とは、自分のこころに余裕を持って”幸せ”を感じる準備があるときです。それに「気づき」そして「気持ち的」かを測れば良いのです。

人には鼓動があるのです。その鼓動は心臓が脈打ちカラダ全体に血液(しんどう)を送ってます。その鼓動を自分たちはどう測りますか?そうですね。手首に指を添え脈を測ります。

人は感情的になるとこの脈を知ろうともしないのです。まぁ。常日頃から脈を知ろうとしない人もおりますが、何故しないのかは別の機会に。

その脈を測ろうとしない事自体が「気づき」がないのです。折角、心の中心の気持ちと繋がるものなのに測る事を知らなければ心の状態も知るすべを失います。

そんな便利な脈を使わない手はないのです。それに”気づき”測れる事はこころの余裕を上手く使う事なのです。

その行い事態が”気持ち的”に回復し出していると云う事です。それは感情が湧くのを止める効能があるからです。訓練あるのみは、こころに繋がる大切な鼓動を感じるをするかしないかにあるのです。「気づき」そして「気持ち的か」が判れば、次の一歩進んだ訓練でこころの回復を促すのです。

つづく↓

(心のカタチより)

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